『栽培植物と農耕の起源』5

<『栽培植物と農耕の起源』5>
図書館で『栽培植物と農耕の起源』という新書を手にしたのです。
中尾佐助さんと言えば、照葉樹林文化論を唱えた第一人者として大使が尊敬している学者だから、この新書もいけてるのではないかと期待するわけでおます♪


【栽培植物と農耕の起源】
農耕

中尾佐助著、岩波書店、1984年刊

<「BOOK」データベース>より
古書につき、データなし

<読む前の大使寸評>
中尾佐助さんと言えば、照葉樹林文化論を唱えた第一人者として大使が尊敬している学者だから、この新書もいけてるのではないかと期待するわけでおます♪

rakuten栽培植物と農耕の起源


第5章・イネのはじまりから、イネについて見てみましょう。
p116~118
<イネは湿地の雑穀> 
 サバンナ農耕文化は乾燥した熱帯であるサバンナ地帯で、夏のモンスーン雨期に生育した禾本科の草の穀粒を採集して食用とすることからはじまった。そのような野生の禾本科穀粒を食用とすることを知った人々が、サバンナ地帯から離れて、雨量の多い地帯にはいっていくと、そこにいままでの乾燥したサバンナとちがった、多くの食べられる湿性の禾本科植物の自然の群落に出あうことになる。

 それらの植物の中でとくにすぐれていて、人間によって選びだされ、水田という新しい栽培地で栽培されるようになった雑穀が、すなわちイネであるというわけである。したがって、アフリカとインドの両方にまたがったサバンナの周辺、すなわちその両端であるインドの東部と、アフリカのゴールド・コーストに近い西アフリカの両方で別々にイネという作物が開発されたという歴史が当然のこととなる。

 西アフリカで独立的に開発されたイネは独特な種類で、オリザ・グラベリマと呼ばれるもので、西アフリカ特産で、ニゼル川の中流、チンブクツ付近から、やや湿った地域に栽培されている。

 アフリカにはがんらい純然たる野性のイネ類は多数あって、その穀粒が採集利用されていたことは多くの報告がある。その状態は、サバンナに生えている野生の禾本科植物の穀粒を採集利用していたのと、まったく同じ現象であった。イネはただ湿地に生ずるだけで、農耕文化の基本複合のタイプとしては、簡単に他の雑穀と同じカテゴリーにはいるものだ。そこではイネはなにか他の文化要素と複合して、雑穀農耕の複合と区別すべきなんらの理由もない。イネは湿地の雑穀だ。
(中略)

 しかしアジアで開発されたイネは、農業上ものすごく重要になり、アジアの歴史を多くの点で規定してきたし、人類の将来へも大きな影響をあたえるに違いないので、この本では相当のページをさくのが当然であろう。


さらに、山棲みと平野型のイネ作農業について見てみましょう。
p132~136
<山棲みとスワンプ・フォレスト> 
 アジアの焼畑農耕民はすべて山に棲んでいる。たとえば典型的なボルネオのディアック族の場合を見てみよう。彼らは河流に沿って上り、河岸に最初に山の傾斜があらわれはじめた所から、上流の傾斜地に焼畑をひらき、主としてオカボを掘り棒で植えている。海岸から彼らの居住地のある山地までのあいだの平野は、一面森林のまま残されている。彼らは平地の生活を好まず、山の斜面に棲むことを好むのだ。このことは東アジアの焼畑農耕文化の共通特色で、焼畑は平地がないので山でやるのではなく、平地はあまっていても山へ行って住んでいる連中の農法である。

 山の中へ逃げ込んだのではなく、山をいとわない文化があるのだ。これが山棲みの民族だ。その山の高さはいろいろで、ボルネオでは海抜高度は問題にならないほど低いが、ネパールななどでは1000-2500メートルくらいの高度がそれにあたっている。
 
 この山棲みの焼畑農業は発展とともに、段階耕作の永久畑、永久水田にすすんでくる。段々畑、段々水田はそこで一つのクライマックスとして出現してくる。ネパールのヒマラヤ中腹地域やアッサム、フィリピンなどでは驚くほど、段々水田が完成の域に達している。

 しかしこの山棲み焼畑農業が完全な段々耕作になっても、その農業生産力の剰余は、山岳地帯に全般的な統一国家をつくるほど大きくはならなくて、ただ地域的な小王国を負担するのが限度である。この点ネパールは例外のようにみえるが、ネパールの場合は歴史にあきらかなように、権力はカトマンズという盆地の生産力の上にきずきあげられたものである。

 東南アジアにはもう一つの型のイネ作農業がある。それが平地水田農業だ。そのもっとも典型的なもの、たとえばタイのメナム川の下流、バンコック付近の水田地帯、あるいはビルマのイラワジ川下流のラングーン付近の水田地帯をみてみよう。

 この二つの地帯はモンスーンの雨期の半ば、8月ごろともなれば、その土地はことごとく洪水の下に没してしまう。飛行機の上から見ると、目のとどくかぎり全部が水面だ。
ただ人家の敷地と町や、鉄道線路だけが水の上に露出して、道路もほとんど水底だ。水平な大地は水、水、水だ。コメの主産地がこれだ。毎年毎年、ここはこうして数ヶ月間水没するのだ。それでも、そこは全部水田耕作地である。

 このように年間数ヶ月は水没する地帯は、水田が拓かれるまでいったい何が生えていたのだろうか。現在この地帯はくまなく開墾されているため、原始林はめったにみられないが、それはスワンプ・フォレストという型の森林であるはずだ。

 数ヶ月も水没したのではふつうのジャングルの樹木では枯れてしまう。とくに水に耐える種類の樹木だけが育っている熱帯林の一種である。このスワンプ・フォレストの典型は現在ボルネオやスマトラの低地に大面積になって残っている。このスワンプ・フォレストは今日の農業技術をもってしても、開拓の非常に困難な場所のように考えられているが、タイやビルマの下部ではあきらかに開拓しつくしてしまったのだ。

 東南アジアの平地水田農業は、このスワンプ・フォレストを開拓しつくすほどの力をもつまでに成長してきた。そしてこの平地水田農業はいくつかの古代国家をささえる力をあらわし、カンボジアのアンコール・ワットに示され、ジャワのボロブドールの古跡に示されるような巨大なモニュメントを残すような力をたくわえることができた。

アンコール・ワットアンコール・ワット

 東南アジアのイネ作農業はこのように、山棲みでオカボを栽培し、焼畑から段々水田へと進展した1系統が根菜農耕文化の土台の上に成長し、その後、一方の極としてスワンプ・フォレストの開拓力で示される平地水田農業の展開がおこり、国家形成力を示したという、二段階のイネ作農業の発展があった。

 この二つの段階の進行度は地域的に一様にはおこっておらず、その差異は大陸周辺部の島をみると大陸部より隔離のある島々で相互によく比較できる。日本、台湾、フィリピン、ボルネオ、ジャワ、スマトラ、セイロン、マダガスカルなどの大島の歴史の展開と現状の大勢は、これらの二つの山棲みと平野型のイネ作農業の相互関係で理解できる。以下その点を簡単に説明しよう。

 日本――雑穀型の山棲み、焼畑農業が現在までごくわずか残存した。日本古代史でも山間に山棲みの農耕民がいたことは文書の歴史にあきらかである。しかし日本の古代国家は近畿の平野や盆地で、平野水田農業の生産力の上に成立した。日本では熱帯でスワンプ・フォレストに相当する大河下流の低地は、アシ原となっていたと推定できる。日本の古名「葦原の中つ国」という言葉は「樹林の中つ国」でなかったこと、すなわち山棲みでなく、平野棲み、しかも低湿地を指示することは、東南アジアにおける国家形成力が平野水田農業の段階ではじめておこったこととよく一致する。ちなみにシナの揚子江下流の湿地も、日本と同様にアシ原が原始景観であったと推定できる。

 台湾――こんにち山中に局限されている高砂族は典型的山棲み生活者だが、農作物の主力は雑穀である。平野部は比較的近代まで自然状態にのこされてきたが、漢族が対岸から移住して開墾したが、台湾独自の漢族社会、漢族国家が成立する時間的余裕がないまま、現代にはいってしまった。

(このあと、フィリピン、ボルネオ、ジャワ、スマトラ、セイロン、マダガスカルと続くのだが割愛します。興味ある方はこの本で読んでください)

要約すると・・・
山棲みの縄文人が、移民が持ち込んだ水稲を育てて「葦原の中つ国」を作ったんでしょうね。

『栽培植物と農耕の起源』1
『栽培植物と農耕の起源』2
『栽培植物と農耕の起源』3
『栽培植物と農耕の起源』4

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