『紅茶スパイ』3

<『紅茶スパイ』3>
図書館で『紅茶スパイ』という本を手にしたのです。
パラパラとめくると、東インド会社、王立園芸協会、三角貿易とか散見されるわけで・・・まさに女王陛下の007ではないか♪

おっと、冗談はさておいて・・・
ちょっと硬い視点かもしれないけど、アヘン戦争当時のイギリスの帝国主義、植民地主義を知りたいわけでおます。


【紅茶スパイ】
紅茶

サラ・ローズ著、原書房、2011年刊

<「BOOK」データベース>より
19世紀、中国がひた隠ししてきた茶の製法とタネを入手するため、英国人凄腕プラントハンター/ロバート・フォーチュンが中国奥地に潜入…。アヘン戦争直後の激動の時代を背景に、ミステリアスな紅茶の歴史を描いた、面白さ抜群の歴史ノンフィクション。

<読む前の大使寸評>
ちょっと硬い視点かもしれないけど、アヘン戦争当時のイギリスの帝国主義、植民地主義を知りたいわけでおます。

rakuten紅茶スパイ


植民地経営の本丸ともいえる東インド会社を、見てみましょう。
p25~29
<第二章 1848年東インド会社本社>
 1600年、エリザベス一世が東インド会社に特許状を与えると、会社は東洋における貿易独占権と数々の委任状を得た。最初の100年間は東洋で主に香辛料と織物を買い入れ、ロンドンで販売した。やがて東洋遠征の資金を集めるために会社は株を売り、株主は会社から配当を受け取った。この方法はイギリスで大成功し、会社は繁栄した。

 ところが収益や成功のチャンスが増えるにつれ、東洋貿易はますます複雑になっていった。東インド会社は多くの貿易相手国の実質的な支配者になり、領土を広げ、貨幣を鋳造し、軍隊を指揮した。条約に署名し、戦争を開始・終結し、法律を作り、課税制度を確立した。東インド会社はいまや国家であり、世界経済におけるまったく新しい存在となった。

 こうして東インド会社は、首相を輩出したピット家に富を、ウェリントン公に軍人としての名声を、初代総督ヘースティングスにインドを与えた。総督のひとりだったエライフュー・イェールは、名門大学の創設に資金援助をした。レッドゥンホール・ストリートにある社交クラブのようなオフィスでは、哲学者・経済学者のジョン・スチュアート・ミルや随筆家・詩人のチャールズ・ラムといった優れた知性の持ち主が働いていた。ロンドン本社は、350人近い社員が勤務する、イギリス最大の民間企業だった。

 会社はイギリス本国並みの大量の軍人をインドで雇用したので、軍人の有効求人数が倍になり、その一方で行政事務を担当する職員の求人数も50パーセント増加した。そして会社は、財産を相続できなかった有閑階級、主にイギリス南部出身の、パブリックスクール出の青年に、ジェントルマン資本主義をもたらした。「イギリスの最高の働き手はインドにいる」と、ある東インド会社の人間はコメントしている。

 ロンドン本社の重役会によって運営されていた東インド会社は、現代の企業並みに組織化されていた。それまでの会社はオーナーと経営者が同じだったが、東インド会社の場合、株主は日々の事業への発言権はなかった。そのためプロの経営者階級といったものがイギリスで誕生し、そのメンバーになることは中産階級の成功者となることだった。

 会社の世界市場への野心は留まるところを知らず、その組織は複雑多岐にわたった。海を渡って取り引きされる商品とサービスと負債の実態を把握するために、国際銀行業務と在庫システムが精巧に作り上げられた。経営責任者には同時にいくつもの市場で大量取引する権限が与えられており、利用できるテクノロジーや情報ならどんなものでも活用した。

 今日の国際ビジネス同様、東インド会社は勝つためならどんなことでもした。そして茶は、会社が傑出した存在であり続けるための商品と考えられていた。茶は1660年代に初めてイギリスに紹介されたが、それはチャールズ二世に嫁いだポルトガルの王女、キャサリン・オブ・ブラガンザが持ち込んだものだった。

 一方、茶は会社にとって理想的な貨物であることがわかった。軽く、梱包しやすく、何が起こるか予想もつかない船の長旅に耐えることができるからだ。高級外国品である茶はたちまち上流階級の間で愛飲されるようになり、肌寒く、雨がちなイギリスの気候では茶を振る舞うことが礼儀をわきまえた趣味の良さを表した。やがて茶は一般庶民にまで浸透していき、18世紀半ばにはイギリスで最も人気のある飲み物となり、ビールの売り上げを上回るに至った。
(中略)

 かつて中国は東インド会社にとって利益を生む源泉だった。会社は中国貿易を独占し、中国の茶、絹、磁器は広州で会社の船に積みこまれてイギリスに運ばれたので、いくらでもお金が入ってきた。茶の粗利益はとくに大きく、19世紀に入る頃には茶だけで他の中国製品の合計額と同じになった。

 ところが、アダム・スミスなどの自由貿易主義者は、中国貿易における東インド会社の独占を激しく非難し続けた。その結果、1834年の議会制定法により、会社は長いこと認められていた中国貿易の独占権も失った。

 こうして収益の多い茶貿易に参入できるようになった貿易会社は、互いに熾烈な闘いを始めた。東インド会社より小さな、新しい貿易会社の船が続々と広東に入港し、アヘンを荷降ろしすると、茶を積んでイギリスに戻っていった。彼らの快速帆船、クリッパー船は中国、イギリス間を記録的な速さで帆走した。それに比べて東インド会社の三本マストの船はいかにも古くさく、図体ばかり大きく、遅かった。まるで会社そのものを象徴しているかのようだった。東洋における無敵の覇者の時代は、幕を閉じようとしていた。


東インド会社は、植民地経営、あるいはグローバリズムのフロントランナーだったようですね。
 
『紅茶スパイ』1
『紅茶スパイ』2

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