『紅茶スパイ』

<紅茶スパイ>
図書館で『紅茶スパイ』という本を手にしたのです。
パラパラとめくると、東インド会社、王立園芸協会、三角貿易とか散見されるわけで・・・まさに女王陛下の007ではないか♪

おっと、冗談はさておいて・・・
ちょっと硬い視点かもしれないけど、アヘン戦争当時のイギリスの帝国主義、植民地主義を知りたいわけでおます。


【紅茶スパイ】
紅茶

サラ・ローズ著、原書房、2011年刊

<「BOOK」データベース>より
19世紀、中国がひた隠ししてきた茶の製法とタネを入手するため、英国人凄腕プラントハンター/ロバート・フォーチュンが中国奥地に潜入…。アヘン戦争直後の激動の時代を背景に、ミステリアスな紅茶の歴史を描いた、面白さ抜群の歴史ノンフィクション。

<読む前の大使寸評>
ちょっと硬い視点かもしれないけど、アヘン戦争当時のイギリスの帝国主義、植民地主義を知りたいわけでおます。

rakuten紅茶スパイ


このプラントハンターの冒険の背景がプロローグに出ているので、見てみましょう。
p1~6
<プロローグ>
 世界地図が植物の名のもとに描き直された地代があった。イギリスと中国というふたつの帝国が、ケシとチャノキというふたつの植物をめぐって戦争に突入した時代である。

 ケシは学名をPapaver somniferumといい、アヘン、つまり麻薬として精製され、18世紀から19世紀にかけて東洋のいたるところで使われていた。アヘンはインドで栽培・精製されたが、その広大なインド亜大陸は、1757年にプラッシーの戦いで勝利を収めたイギリス帝国の旗のもとに統治されていた。そしてアヘンは、イギリス帝国の保護を受けた誉れ高きイギリス東インド会社により、「唯一かつ排他的に」売買されていた。

 ツバキ科の常緑低木であるチャノキは学名をCamellia sinensisといい、「茶」として知られている。当時、中国帝国はほぼ完全に茶を独占していた。この国だけが茶を栽培し、販売していたのである。

 ところが19世紀になると、東インド会社は中国にアヘンを売り、その収益で中国茶の代金を支払うようになった。逆に中国は茶の販売で得た銀貨で、イギリス人商人からインド産のアヘンを買い、その代金を支払うようになった。いわゆる三角貿易[イギリスの綿製品をインドへ、インドのアヘンを中国へ、中国の茶をイギリスへ輸出していたので三角貿易と言われた]の始まりだ。

 茶を買うためにアヘンを売るというこの交易は、イギリスに利益をもたらしただけでなく、イギリスは経済の屋台骨を支える最も重要な貿易のひとつだった。なぜならイギリス政府の財源のほぼ一割は、茶の輸入税と販売税から得られ、当時のイギリス人はひとりあたま年間ほぼ1ポンド(約454グラム)の茶を消費していた。その茶税で鉄道が敷設され、道路が建設され、公務員の給料が支払われたが、新興工業国イギリスにとって必要なものだった。

 またアヘンも、イギリスにとって同じようになくてはならないものだった。アヘンはインド経営の資金源になっていたからだ。イギリスはインドの経済的発展を願う一方で、19世紀半ばにはインドの西北辺境地帯で領土拡張戦争を繰り返していた。肥沃で広大なインド亜大陸から得られる利益は、すべて戦費に投入された。インド産のアヘンと中国産の茶をめぐる貿易は、イギリス帝国を動かす原動力であった。

 19世紀半ば、イギリスと中国の関係はかなり悪化していた。北京におわす高貴で神聖なる皇帝は、1729年に国内でのアヘン売買を「法律で」禁止していたが、実際には密輸入が続けられており、むしろアヘン売買は急増し、増える一方だった。1822年から37年までの15年間だけでも、その量は5倍に跳ね上がった。ついに1839年、広東に派遣された中国政府の欽差大臣(特命全権大使)林則除は、貿易港広州にいる外国人の不品行や中国人の間に蔓延しているアヘン中毒の弊害に激怒し、外国人をひとり残らず人質に取り、三百人のイギリス人の身代金としてアヘンを要求した。その価格は600万ドル(現在の1億4500万ドル)に相当した。

 アヘンが没収され、イギリス人が解放されると、林則除は500人の中国人労働者に命じて、没収した300万ポンド(1400トン弱)のアヘンに海水と消石灰を混ぜ、シュ江に流した。それに対抗して、若きヴィクトリア女王は収益の多い三角貿易を存続させるためにイギリス海軍を派遣し、開戦の口火を切った。

 海戦で中国が惨敗したのは言うまでもない。中国の木造帆船の軍艦では、イギリスの近代的な蒸気艦船に敵うわけがなかった。戦後締結された南京条約は戦勝国イギリスにとってかなり有利な条約だったが、とりわけ香港島の割譲と、五つの貿易港の開港、および付属協定は、とくに大きな成果だった。

 13世紀後半にマルコ・ポーロが中国を訪れて以来、内陸部に足を踏み入れた西洋人は皆無といってよかった。アヘン戦争以前の200年間、イギリス船は広東の港<シュ江の河口で栄えた中国南部の商業都市広州>しか停泊を許されなかった。またイギリス人は倉庫の外に出られず、市壁を見ることもできなかった。6メートルの厚みに8メートルの高さの市壁は、外国人地区から200メートルしか離れていなかった。しかし戦争の勝利により、イギリス人は内陸部に、ほんの少しだけだが入ることができるようになった。

 5港が開港されると、イギリス商人は光沢のある絹、優美な磁器、香り立つ茶の輸入を手がける商売を夢見るようになった。どれも内陸部には山ほどあり、広い世界へ売られていくのを今か今かと待っていた。イギリス商人は、広州の倉庫街を牛耳っている老獪な中国人ブローカーを介さずに、生産者と直接取引ができることを望んでいた。彼らは莫大な富を、豊かな鉱物資源を、穀物を、植物を、花を思い描いた。中国は、換金されていない商品であふれている大国だった。

 しかし、アヘン戦争後に築かれた新秩序は不安定なものだった。イギリス海軍の砲艦に脅かされて仕方なく締結した屈辱的な条約は、一国で自給自足していた誇り高い中国にとって、ひどく不名誉なことだった。イギリスの政治家や貿易商人はそれを懸念していた。プライドを傷つけられた中国皇帝が、南京条約によって保たれている微妙なバランスを、中国本土でのアヘン栽培の合法化により崩し、ひいてはアヘン栽培のインド独占、つまりイギリス独占を無にしてしまうのではないかと。

 そんなとき、ロンドンの町である意見が人々の心をとらえていた。イギリスのために茶は確保されなければならない、というものだ。アヘン戦争の頃はナポレオン戦争が終わってからだいぶ経ってはいたものの・・・トラファルガーの海戦やワーテルローの戦いで活躍した勇敢な男たちが、外交政策にいまだに影響力を及ぼしていた。例えばヘンリー・ハーディングは、ネルソン提督やウェリントン公爵とともにナポレオン軍打倒に貢献した名将だが、インド総督時代に、反抗的な中国によって引き起こされそうな危険について次のように警告した。

【小生の考えでは、数年のうちに中国政府が本土でケシ栽培を合法化すると思われます。これは、本政府の現在の主な財源を奪われるということにも通じます。中国本土はインド同様、ケシ栽培に十分適していることはすでに証明済みであります。この観点から、インドでの茶栽培をことごとく奨励することが非常に望ましいと思われます。小生の見るところ、茶はケシ同様、インドで栽培でき、アヘン売買の独占から現在得られる収益より、さらに確実な財源となることが、近いうちに証明されるでしょう】

 中国政府がケシ栽培を合法化したら、三角貿易に重大な歪みが生じてしまうことになる。つまり、イギリス政府は茶の輸入代金、インドでの戦費、本国での公共事業費を賄う財源をもはや得られなくなるかもしれないのだ。中国でケシ栽培が始まれば、イギリスと中国というふたつの帝国が陥った恥ずべき経済的共依存関係に終止符が打たれることになる。それはケシとチャノキという二つの植物の交換がもたらした不幸な結婚の終焉と言えるが、その離婚をイギリスはどうしても認めることができなかった。


 帝国ニッポンによる満蒙開拓より先立つこと約100年、イギリスの重商主義が中国を蚕食していく様が伝わってきます。
・・・このプロローグは、よくできたサマリーにもなっていますね。


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