『歴史と出会う』3

<『歴史と出会う』3>
図書館で『歴史と出会う』という本を手にしたのです。
おお 「もののけ姫」について宮崎駿との対談が載ってるやんけ♪・・・
というわけで、借りた次第です。


【歴史と出会う】
歴史

網野善彦著、洋泉社、2000年刊

<「BOOK」データベース>より
戦後日本の歴史学が生んだ泰斗、網野善彦の仕事は、左翼運動の挫折を乗り越えるための厖大な読書量と、さまざまな人々との出会いから生まれた。その成果は歴史研究の枠をはるかに凌駕してベストセラーを生み出し、さらにその影響力は文学や映像の世界にまで拡がっている。読者と同じ目線で歴史を学び、研究することの愉しさを教えてくれる一冊。

<読む前の大使寸評>
「もののけ姫」について宮崎駿との対談が載っているので、借りた次第です。

rakuten歴史と出会う


網野さんと宮本常一との出会いが興味深いのだが・・・そのあたりを見てみましょう。
p48~50
宮本氏からの最後の電話
 私は宮本常一氏から直接、教えを受けたことがほとんどない。最初にお目にかかったのは、1950年から私が勤務することになった日本常民文化研究所の月島分室であったことは間違いなく、ときどきこの分室に姿を見せた宮本氏の日に焼けた明るい笑顔は、私の目に焼きついている。しかしそのときの同僚速水融氏や江田豊氏が宮本氏の能登調査に同行し、強烈な影響を受けたような幸福な機会には、私はついに恵まれなかった。

 1955年にこの月島分室が活動を停止してからは、お目にかかることも全くなかったが、そのころ、漁民、海民についてほそぼそと勉強していた私は、松浦党にふれた宮本氏の調査報告「五島列島の産業と社会の歴史的展開」(1952年、長崎県)を読み、ようやく『海に生きる人びと』に辿りついて宮本氏の学問に強く惹きこまれ、その著作を乱読するようになっていった。

 そしてそれを媒介してくれたのも、やはり月島分室の同僚河岡武春氏であった。1960年ころ、私の住んでいた芦花公園の団地にしばしば訪れ、夜を徹して宮本氏とその仕事について熱っぽく語ってやまなかった河岡氏によって、私は徐々に、民俗学の世界に目をひらかれていったのである。

 そして名古屋に移ってから、やはり河岡氏の誘いで日本塩業研究会に出席するようになり、その総会が高松で開かれたとき、私は初めて宮本氏と同席し、短時間ではあれ、学問上の教えを受けることができたが、そのような機会は、ついに二度とめぐってこなかった。

 しかしただ一回、宮本氏が直接私に電話を下さったことがある。私が名古屋大学を辞め、かつて月島分室の時代に借用したまま、四半世紀を経過し、多くの方々に多大な御迷惑をおかけした古文書の返却を主要な仕事とすべく、日本常民文化研究所を招致した神奈川大学の短期大学部に転職することの決まった1980年のことで、私の転職を喜ばれ、「」といわれた宮本氏の声は、いまも耳について離れない。

 自らの借用された文書が返却されぬまま放置されていることに、宮本氏がどれほど心を痛められておられたかを痛切に感じ、私はそれを強く心に刻み込んだ。現在まで約15年、どうやらその仕事を達成することのできたのは、一つには宮本氏のこうした思いに支えられてのことであったが、この電話が私の聞いた宮本氏の最後の声であった。

実現しなかった宮本氏著『東と西の語る日本の歴史』
 このように、私は民俗学に関しては全くの晩学の素人であり、宮本氏とのお付合いも少なく、その著作のすべてを読破したわけでもない怠け者で、こうした解説を書くなど全く僭越の沙汰であるのは間違いないが、『日本文化の形成』三巻の出版に情熱を注いでこれを実現し、後に心を残しながら昨年(1993年)、急逝した「そしえて」の社長大谷高一氏が、本書の親本の「出版にいたるいきさつ」で記しているように、私は本来、宮本氏が書かれるはずであった『東と西の語る日本の歴史』を、この『日本文化の形成』の代わりにいただいた形になっているのである。

 その提案をしたとき「先生は、ちょっと心残りな顔をなさった」と大谷氏が書いているとおり、もしも宮本氏がこのテーまで執筆を完成しておられたら、私の拙い書などより、はるかに大きなスケールのすぐれた著書が誕生したに相違ない。


『歴史と出会う』2
『歴史と出会う』1

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