『景徳鎮からの贈り物』

<景徳鎮からの贈り物>
図書館で陳舜臣著『景徳鎮からの贈り物』という本を手にしたのです。
陳舜臣さんと言えば、司馬遼太郎とともに関西出身であり、大使にとって気心が知れているわけで・・・
また、中国嫌いの大使であるが、日本に順化した旧来からの在日中国人は慎み深い生き方が身についているようで、親近感があるのです。


【景徳鎮からの贈り物】
景徳鎮

陳舜臣著、新潮社、1993年刊

<「BOOK」データベース>より
銘品づくりに生涯をかけた中国の名工たち。陶磁器・刺繍・墨・筆・夜光杯など名品にまつわる歴史秘話八編。
【目次】
金魚群泳図/挙げよ夜光杯/波斯彫檀師/景徳鎮からの贈り物/墨の華/景泰のラム/湖州の筆/名品絶塵

<読む前の大使寸評>
中国嫌いの大使であるが、陳舜臣のような在日中国人は慎み深い生き方が身についているようで、親近感があるのです。

rakuten景徳鎮からの贈り物


この本は、歴史秘話八編からなる短編集となっているのだが、そのうちの『景徳鎮からの贈り物』を見てみましょう。
p120~122
<景徳鎮からの贈り物>より
 中国甘粛省を旅行したとき、案内の人が砂漠の彼方を指差して、
・・・あの橋湾城には、清朝時代、汚職で死刑になった大臣の皮を剥いで作った太鼓が、櫓にぶら下げられていたそうです。

 と説明してくれた。清朝時代といっても、これは長命王朝で、269年もつづいている。どの皇帝のころの話なのかと訊くと、案内の人はしばらく考えてから、
・・・乾隆のころだったと思います。
 と答えた。

 乾隆帝の治世は、1736年から、1795年まで、まる60年もつづいた。
・・・ああ、乾隆ですか。・・・

 私はうなづきながら呟いた。心のなかでは、人間の皮を剥いで太鼓を作るなど、乾隆帝よりも、その父である雍正帝のやりそうなことだと思っていた。

 夏目漱石は「即天去私」ということを言った。私を去って天に即く。・・・なかなかりっぱな言葉である。だが、私は即天去私というモットーをきくと、いやな気がしてならない。なぜなら、雍正帝がこの言葉を信条としていたからである。

 私を去るのは、けっこうなことであるが、そのために雍正帝はきわめて冷酷になってしまった。皇帝として、絶対的な権力をふるうために、邪魔ものはみな消そうとしたのだった。「天に即く」という口実で。

 雍正帝の父の康熙帝は、名君のほまれの高い人物であったが、35人の皇子を生んだ。はじめ次男を皇太子に立てていたが、反皇太子派との争いに破れて失脚した。康熙帝はこのことによほどのショックをうけたのであろう。皇太子を廃したあと、ついに皇太子を立てなかった。臣下で皇太子を立てるように進言する者がいると、彼はたいそう立腹したという。だが、それでも康熙帝が死ぬときは、やはり後継者が問題とならざるをえない。

 臨終のとき、康熙帝は後継者を指名した。
・・・大四皇子の胤シン。・・・
 これが雍正帝である。

 康熙帝が最も愛していたと思われたのは、十四男であったので、世間では雍正帝派が遺言のなかの十を消して四だけにしたのだという噂が立った。

 雍正帝派の主要人物は、隆科多と年羹堯であった。この二人が暗躍して、雍正帝を帝位に即けたのであろう。なにしろ、暢春園の離宮で康熙帝が死ぬとき、そばにいたのは隆科多ただ一人であった。先帝がほんとうに雍正帝を指名したかどうか、きわめて疑わしい。
 雍正帝は即位すると、皇位継承のライバルであった兄弟たちを、つぎつぎと片づけはじめた。彼はそうしてこそ、帝王の権威が守れるのだと信じていた。

 雍正帝の父の康熙帝は60年間在位して死んだ。そして、雍正帝の子の乾隆帝も60年在位した。そのあいだに雍正帝の治世13年がはさまっている。康熙・雍正・乾隆の三代を、清朝の全盛期とみてよいだろう。

 だが、ほんとうは雍正帝の13年は、じつに暗い時代だったのである。それは、密偵と密告の時代であった。雍正帝の腹心の近衛将校たちが、変装して民間にはいり、いろんなことをさぐっては皇帝に報告したのである。どんな親しいあいだでも、うかつなことはしゃべれない。どこで誰にきかれるか、わかったものではない。人びとは壁に耳ありと、萎縮してしまっていた。

 雍正帝はライバルをたおしただけではない。各地に放ったスパイの報告によって、自分に反対する者を片っぱしから粛清した。そして自分の独裁権を強化するため、自分を擁立してくれた二人の恩人まで片づけた。隆科多は満州人で、しかも雍正の皇后の父なので、さすがに終身禁固ですませたが、もう一人の恩人の年羹堯は死なねばならなかった。

 甘粛で人間の皮の太鼓の話をきいたとき、私は乾隆よりも雍正ではないか、そしてもしそうだとすれば、皮を剥がれたのは年羹堯かもしれないと思ったものだ。


超絶技巧が出てくるあたりを見てみましょう。
p150~151
 皇帝のそばへに近づかないで、皇帝を毒殺する方法はないだろうか?・・・考え疲れて、うとうとしていたとき、彼女(呂四娘)の頭にひらめいていたものがあった。

 飲食物のなかに毒を入れないでも、皇帝の口のなかに毒をはこびこむ方法があるのだ。飲食物をいれる容器に細工をするのだ。その容器は誰が作るのか?・・・景徳鎮の窯で焼かれる。では景徳鎮に行こう。

 皇帝御用の品が、ときどき景徳鎮に発注されることを彼女は知った。それで彼女は景徳鎮の官窯に職人としてもぐりこんだ。そんなに簡単ではなかったが、宮女として紫禁城にはいるよりは楽だ。彼女はそこで日夜研究を重ねた。

 彼女はいくらか金をもっていて、金の力で縁の仕上げにまわしてもらうことができた。仕事をしながら、彼女はなんども実験した。碗の縁にうわ薬をかけて仕上げるとき、焼き上げると小さな空洞ができるように細工する方法を編み出した。目にみえないほどの小さな粟粒ほどの孔である。そのなかに猛毒を仕込み、蜜蝋にほかの薬品をまぜてかぶせておく。色といい光沢といい、外からみればきれいなうわ薬である。

 皇帝が使うまえには、食器類はきっと丹念に洗われるだろう。だから、猛毒をとじこめた蓋の部分は、すぐに溶けてはならないのである。その物質の強さを、彼女はなんども実験した。皇帝は熱い茶を飲むであろう。何度目にかに、熱のために、蜜蝋を主材料とする蓋が溶けて、毒は皇帝の口にはいる。・・・茶とともに。


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