『宮本常一の写真に読む失われた昭和』

<『宮本常一の写真に読む失われた昭和』>
図書館で『宮本常一の写真に読む失われた昭和』という本を手にしたが…
記憶の片隅にやっと残っていたような写真が満載されています。タイトルにあるように、もう失われた景色なんでしょうね。


【宮本常一の写真に読む失われた昭和】
宮本

佐野真一著、平凡社、2004年刊

<【目次】「BOOK」データベース>より
第1章 村里の暮らしを追って(景観にめぐらせた無限の夢/鳥の目で地形を、虫の目で暮らしを ほか)/第2章 島と海に見た貧しさと豊かさ(海とともに暮らせた時代/過疎化前の島のたくましさ ほか)/第3章 街角で聞こえた庶民の息づかい(師・渋沢ゆずりの細部へのこだわり/宮本の写真術とその思想 ほか)/第4章 ジャーナリストの視点(学生運動と百姓一揆ー60年安保/大規模災害の現場ー新潟地震 ほか)

<読む前の大使寸評>
記憶の片隅にやっと残っていたような写真が満載されています。タイトルにあるように、もう失われた景色なんでしょうね。

rakuten宮本常一の写真に読む失われた昭和


昭和30年代の高度経済成長時期は日本の大転換期だったようで・・・宮本さんや網野さんが説くように、日本人はこの時期に何かを失ったようです。
p22~24
<日本の大転換期における「しぐさ」の記録>
 先ごろ物故した歴史学者の網野善彦は、遺作となった『「忘れられた日本人」を読む』(岩波書店)のなかで、この『絵引』という着想をたいへん高く評価し、「こういう細かい仕草まで宮本さんがすべて名前をつけられたのですから、これは大変なことだったと思います」と述べている。

絵引『絵巻物による日本常民生活絵引』

 網野は戦後の一時期、アチック・ミューゼアムの後身の日本常民文化研究所の分室の水産資料整備委員会に参加したことがある。そこで水産に関する古文書集めに全国を飛び回っていた宮本を知った。宮本が死んだとき、心にしみる追悼文を朝日新聞に寄せたのも網野だった。網野はそのなかで、『忘れられた日本人』の中の名品中の名品の「土佐源氏」を読んだときの感銘は忘れ難い、それ以来、私は宮本式の著作をあさり読んだ。民族学の分野に私の目が多少とも開かれたのは、まったく宮本氏の魅力にひかれてのことだといってよい、と記している。

 神奈川大学短期大学部の教授時代、網野はテキストに『忘れられた日本人』を使った。いちばん困ったのは、そのなかに出てくる木炭や火鉢といった言葉を学生たちがまったく知らなかったことだったと、網野は前掲書のなかで述べている。

 網野はさらに、私どもの世代と今の世代との間に横たわっている断絶はたいへん深いものがあるような気がする、私流に言えば、14,5世紀頃に日本列島の社会ではかなり重大な文化・生活の大転換があったと思うが、それに匹敵するくらいの、あるいはそれ以上にはるかに深刻な社会の大変動が、現在、進行中なのかもしれないという実感をもっている、とつづけている。

 網野のいう大変動を私なりに解釈すれば、その起点は昭和30年代の高度経済成長にあった。エネルギー革命が起こり、われわれの身の回りから木炭も石炭も消えていった。それは必然的に日本人の生活様式を根本から変えるものだった。宮本の写真が貴重なのは、そのほとんどが、まさにその端境期に撮影されたものだからである。

 そこには消えてゆく日本の姿が、ゆったりとした時間の流れとともに確実に写しとられている。

 昭和30年代に宮本が佐渡東海岸ぞいの松ヶ崎で撮影した、道路工事用の砂を背負箱で黙々と運ぶ女たちや、秋田県北部の上小阿仁村で撮影した女のかつぎ屋姿は、今ではまったくといっていいほど見られなくなってしまった。だが、宮本が索引づくりを担当した中世の絵巻物に登場する物を背負う庶民の姿と、宮本が写した背負い姿はそっくりといってもいいくらいによく似ている。宮本はこれらの写真を撮るとき、中世の絵巻物の世界をダブらせていたに違いない。
(中略)

 人間は本来、物を自分の肉体で運ぶ機能をもった存在だった。頭で運び、肩や背、手や腰で物をどこまでも運搬した。人体はそれ自体が秀れた運搬具といってもよかった。頭部での運搬は中世では男にもみられたが、近代に入ると、なぜか、女に限られた。

 天秤棒や背負子、牛馬やリヤカーによる運搬姿も、自動車が普及するまでは、全国どこにでも見られる風景だった。


p93~95
<過疎化前の島のたくましさ>
 宮本に「海ゆかば」という故郷の古老からの聞きとりに基いたエッセイがある。ひとり乗りの小舟で大漁の魚を追って出かけた漁師が、朝鮮から中国の沿海、はてはインド洋にまで航海し、その地に腰を落ち着け、十数年後に帰ってきたときには、仏壇に自分の位牌がかざられていたという話である。

 この島の漁民には、こうした海洋民的性格が元々そなわっていた。彼らはやがて、台湾、朝鮮、中国の青島、そして遠くハワイにまで沖家室島の「分村」をつくった。

 沖家室島は人口三百人たらずの小さな島である。その小さな島から、戦前、「かむろ」という情報発信マガジンが刊行されていた。大正3(1914)年に創刊された「かむろ」は、昭和15(1940)年まで158号にわたって刊行された。「かむろ」には、ホノルル通信、ヒロ通信、青島通信、基隆通信など、在外沖家室島民からの便りが毎号のように掲載されている。

 彼らにとって、そしてその血を色濃く受け継いだ宮本にとって、海は人と人とを隔てる境界線ではなく、古くから人と人とを結びつけるかけがえのない交通の場だった。この視点は、渋沢敬三から見ていわば宮本の弟弟子筋にあたる網野善彦の歴史観にも通じる。

 死のちょうど3年前に、網野を長時間インタビューしたことがある。そのとき網野は、遺言でも残すように、海から日本列島を見るという視点をいちばん強く教えられたのは宮本さんからだった、もし僕が渋沢先生と宮本さんに出合うことがなかったら、自分のいまの歴史観は間違いなく生まれていなかった、と繰り返し言った。

 「海から見た日本」という問題意識は、晩年、宮本をとらえてはなさないテーマだった。宮本は最後の入院先となった病院のベッドに、二百字詰めの原稿用紙二千枚を持ち込み、日本列島に住む人びとの海を越えた文化の交流と伝播の歴史をあとづけようとする、壮大な構想に挑もうとしていた。それは宮本がこれまで乱雑に取り組んできた世界を再構築し、さらにそれを根本から問い直す仕事になるはずだった。しかし、病床には何も書かれていない原稿用紙だけが残った。

 宮本が撮影した離島の写真からは、まだ本格的な過疎の波に洗われる前の島のたくましさも伝わってくる。それがいっま、島に橋がかかり、交通が飛躍的に便利になって、過疎と高齢化の波が容赦なく島に襲いかかっている。宮本がかつて、日本の離島という離島に橋を架けたいという思いあまった言葉まで吐露したことを考えあわせるなら、それは皮肉というにはあまりにも痛切な現実というほかない。 


p180~181
<その写真をどう読むのか>
 すぐれた写真は、それを自ずから喚起する力を内在的に備えている。それを見る者は、自分がどういう時代に生き、その時代とどう向き合ってきたのか、鋭く問われることになる。その写真を見ることによって、自分と世界との間に横たわる目に見えない等高線を感じとり、自分がその等高線のグラデーションのどのあたりに存在しているかを、いやおうなしに実感することになる。

 宮本の写真は、一見、懐かしい世界だけを写しとっているように見える。しかし、その写真は、見る者の身体能力のすべてを稼動させなければ本当に読み解くことはできない。1本の流木から相互扶助の精神を読みとり、杉皮が干してあるだけの山村風景から山林労働の全過程を読みとることはできない。

 「あるくみるきく」精神から生まれた宮本の写真には、キーボードをたたくだけで、瞬時に「解」が出るインターネットとは対極の世界が広がっている。そこには、歩くことでしか見えてこない「小文字」の世界が、ゆったりと流れるアナログの時間のしわとともにゆるぎなく定着されている。宮本の写真は、われわれがどこから来て、どこに行くかを静かに問うている。

 「記憶されたものだけが記録にとどめられる」
 宮本が晩年語った言葉だが、宮本の写真から伝わってくるのは、それを反転させた言葉である。

 「記録されたものしか記憶にとどめられない」
 宮本の写真の底には、高度経済成長期前後の日本人の記憶と記録がおびただしく堆積されている。

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