『アジア海道紀行』4

<『アジア海道紀行』4>
図書館で『アジア海道紀行』という本を手にしたが・・・
東シナ海の(外交的)波高し昨今であるが、この本がふれている歴史認識が肝要ではないかと思ったのです。


【アジア海道紀行】
アジア

佐々木幹郎著、みすず書房、2002年刊

<「BOOK」データベース>より
鑑真が漂着した島、倭寇が拠点とした島はどこか?唐辛子はなぜ「唐」なのか?日中韓3国沿岸の港町、島々をめぐる旅。
【目次】
鑑真が到着した港ー入唐道・坊津と秋目浦へ/鑑真が出発した港ー中国・長江の岸辺へ/海の上の観音菩薩ー中国・普陀山へ/風待ちの島、漂流のルートー中国・舟山群島から寧波へ/消えていった大凧/凧の文化とアジアの海とー長崎へ/唐辛子は、なぜ「唐」なのかー韓国・釜山へ/非時の香の木の実を求めてー韓国・済州島へ/元寇の舞台と捕鯨漁ー鷹島と平戸へ/SHANGHAIする!/上海幻変・蟋蟀博打

<読む前の大使寸評>
日中韓に横たわる東シナ海は、今では紛争の海に成り果てたが…
著者が観る歴史的な視点がええでぇ♪

rakutenアジア海道紀行

この本は読みどころが多いので、(その4)として読み進めました。 

長崎の異国文化が語られています。
p122~126
<凧の文化とアジアの海と>より
 わたしは地方へ旅するたびに、その土地の醤油の味を確かめる癖がついている。醤油の味は日本人のアイデンティティを確かめるのにもっとも有効だ。日本の各地に方言が残るように、醤油の味も方言のように異なるのである。どれが美味しくて、どれがまずいというランク付けはできない。人はそれぞれ生まれ育った土地の醤油の味を最高だと思い、その刷り込み現象は生涯、変わることがない。これが面白いのだ。

 日本の料理文化は、13世紀中頃、慶長年間に中国からもたらされた「味噌」と、そのたまり液である「醤油」によって、飛躍的に発展する土台ができたといわれている。それが一般に普及するのは、18世紀末から19世紀の初め、江戸時代も後期になってからだが、醸造する場所の水や大豆、そして何よりも麹菌の種類によって、濃口、淡口、甘口と、さまざまなバリエーションを生んだのである。

 それはその土地の気質と似かよっていた。関東の濃口、関西の淡口、そして石川県などに残る「いしる」と呼ばれる「魚醤」。また名古屋、広島などの甘口。

 長崎の食べ物の甘さを知って、最初にこの地の醤油の味を確かめた。レストランのテーブルの上に置かれた醤油瓶から一滴垂らして甞めてみる。甘い!何という名の醤油ですか、といくつかのお店の人に聞くと、みな一様に「チョウコウ醤油」という長崎の種湯メーカーの名を教えてくれた。甘いですね、と言うと、そんなに甘いですか?と長崎の人は不思議そうな顔をする。

 魚ノ町にある日本料理店、茶房膳所「なつめ」のご主人、荒木英八さんにうかがうと、「甘いでしょう」と嬉しそうだ。長崎は日本で砂糖を使用した最初の土地ですからね、砂糖をたっぷり使うのが料理の特徴です。ただ、うちでは「チョウコウ醤油」だけでは甘いので、他の醤油と混ぜていますが、ということだった。

 「なつめ」で出されたすべての料理、特にタケノコ御飯は美味しかったが、やはり微妙な甘さ。漬物に醤油をかけて、甘いと思ったのは長崎が初めてだ。

 荒木氏によれば、江戸期に長崎に入ってきた砂糖は、オランダの東インド会社を経由してきたものを上質、中国から入ってきたものを並とした。琉球の黒砂糖などは薩摩藩が銅線ルートを持っていたが、これもいったんは長崎に入ってきた。

 出島に駐留していたオランダ商館長が帰国するとき、丸山遊郭の遊女とのあいだにできた子供の養育費として、砂糖数貫を残していったという記録もある。長崎はこういう砂糖文化によって、醤油まで甘味分を多くしていったのだ。

 長崎の街を車で走っていると、その「チョウコウ醤油」の本社ビルの前を通過した。看板を見ると、長崎伝統の手作り凧「長崎ハタ」のデザインと同じような菱形、そして赤、白、青で彩色されている。そう言えば、長崎市内を走るバスも、赤、白、青にカラー分けされているのが多い。オランダやフランスの国旗に似ていて、洒落ている。

 この街のカラー・コーディネートは、意識的にされているのか、それとも自然とかもし出されたものなのか、そのすべては「長崎ハタ」と呼ばれる、独特の伝統凧のカラーとつながっているようだ。

 「凧」という漢字は中国にはない。江戸時代に日本で作られた国字だ。「風」に舞う「巾」というところから、このような漢字が作られた。これを「たこ」と呼んだのは江戸で、それより前、17世紀に大坂でブームになったときは、「いかのぼり」や「いか」と呼んだ。
(中略)

 3月下旬から4月下旬までが長崎の「ハタ揚げ」の季節だ。ちょうどこの頃になると、中国大陸から「黄砂」まじりの風がやってきて、激しい砂嵐が吹き始める。それが「ハタ」に絶好の風となった。

 この風は南西の方角から吹きつけた。そしてその南西風に乗って、かつては唐人船やオランダ船が帆をふくらませて入港してきたのである。秋になると風向きが逆さまになり、北東から吹き出す。これを地元では「夜北」と呼んだ。この風に乗って、半年ほど滞在していた異国の船は日本を後にした。

 長崎の異国文化は風とともにやってきたが、それは中国大陸と地続きのように、「黄砂」まじりの砂嵐であったということ。そして、その風に乗って舞う「ハタ」が、「ビードロ」という異国から入ってきた材料をふんだんにまぶした糸に結ばれ、空高く揚がっていたということ。わたしはこの話を長崎の人から聞いて、なるほど、この地がアジアとヨーロッパの海に開かれた窓口だったのだと、改めて知らされた。


さらに長崎の中国文化が語られています。
p138~141
 長崎はヨーロッパへの窓口として「出島」だけが現在、有名になっているが、中国人がもたらしたこの街への影響力は大きい、いや、深く浸透したという意味では、中国文化のほうが強かっただろう。

 そのことを感じたのは、唐人町の入口に残されている「土神堂」というお堂を見たときである。「土神」というのは、中国で言う土地の神様のこと。この堂の前で、唐人たちの集会があり、旧暦の正月15日には「竜踊り」が催された。この踊りを見た隣町の人々が中国人から指導を受けて、諏訪神社の秋の祭礼の「くんち奉納踊り」のメインとして「竜踊り」を奉納するようになった。

 そういう日本人の祭礼への影響だけではなく、「土神堂」の文字を見て、なるほどと納得したのは、長崎市内の墓地のあちこちで見かけた石碑のことであった。家々の墓地には、必ず隅に「土神」と彫られた小さな石がある。何のことか、わたしにはわからなかった。大串博寿氏にそのことを尋ねると、あれは墓地を守る神様ですよ、よその土地ではそういうものはありませんか?と驚かれた。

 長崎人は、お盆のときは墓地で花火も上げるという、花火も中国渡来の文化である。この風習はいつ頃からのことなのだろう、と疑問がふくらんでいたのだが、唐人町の「土神堂」を見て、ああ、ここから来たのかと納得したのだった。長崎では祭礼のようなハレの日も、葬式のようなケの日にも、中国人が直接この土地にもたらした文化を流入させているのである。

天后聖母

 そして唐人屋敷跡や、また市内の唐寺に今も祀られている「媽祖神」。長崎で「天妃」あるいは「天后聖母」と呼ばれているこの神様の像は、いったい市内に何体あることだろう。媽祖神は中国人の船菩薩であり、航海安全の神様である。唐人船が長崎に入港すると、彼らは自分たちの故郷の出身者が建てた菩提寺へ参詣し、船内の「媽祖神」を保管してもらった。そして半年後に出航するとき、寺院から「媽祖神」を渡され、再び船に積み込んだのである。



『アジア海道紀行』1
『アジア海道紀行』2
『アジア海道紀行』3

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