『東方的』3

<『東方的』3>
図書館で中沢新一著『東方的』という本を手にしたが・・・・
目次を見ると、多彩なテーマが並んでいて、何が語られるのか、興味深いのです。


【東方的】
東方

中沢新一著、講談社、2012年刊

<「BOOK」データベース>より
ボストークー東の方。人間を乗せた最初の宇宙船の名前である。偉大なる叡智=ソフィアは、科学技術文明と近代資本主義が世界を覆い尽くす時こそが、真実の危機だと告げる。バルトーク、四次元、熊楠、マンダラ、シャーマニズム、製鉄技術、方言、映画とイヨマンテ…。多様なテーマで通底する「無意識」に、豊饒な叡智を探求する。

<大使寸評>
スラブ民族や熊楠曼荼羅など、果ては四次元的推論まで縦横無尽に書きつくす(あるいは書き散らす?)中沢さんの頭の中は、どうなっているのだろうと、驚いたのです。

shogakukan東方的


宇宙船ボストークの壮挙をエマニュエル・レヴィナスが次のように語っています。
p141~143
<脳とマンダラ>
 ユーリ・ガガーリンを乗せた有人宇宙船ボストークが、人間をはじめて宇宙空間に送り出すことに成功し、そのとき宇宙から地球を見たガガーリンが、「地球は青かった」と語ったことは、あまりにも有名です。

 人間が宇宙空間に出ていくことの意味については、その当時から、さまざまなことが語られてきました。おおかたの見解は、現代の科学技術によるその「壮挙」が、人類に新しいフロンティアを開いた、ということの意義を強調していました。つまり、それはコロンブスがアメリカ大陸を発見することによって、西欧世界のフロンティアがいっきに拡大することになったのと、同じような意味をもつ行為だ、とみられていたわけです。

 人間という生物の条件はそのままで、その生存の空間領域が拡大していく、そういう拡大を科学技術が達成しつつあるのだ、というオプチュミズムが、この事件をとりまいていたように思われるのです。

 ところがその当時すでに、この「壮挙」には、人類にとってそんなことよりももっと深い、哲学的ないしは神学的な意味がこめられていることを、鋭くみぬいていた1人のユダヤ思想家がいました。エマニュエル・レヴィナスです。

 彼は、そのときつぎのように語りました。「1時間にわたって、人間はあらゆる地平の外に存在した・・・彼の周りではすべてが空だった。というより正確に言えば、すべてが幾何学的空間だった。ひとりの人間が均質空間の絶対性の中に生存したのだ」。

 人間が宇宙空間に出ていくということには、フロンティアを拡大するたんなる冒険でもなければ、宇宙空間についての科学的な知識が増すということでもない、もっと別な意味がかくされているのだ、と彼はここで語っています。

 それは、人類がいままでその中で生き、進化をとげ、歴史をつくってきた、地球という「大地」から離脱して、均質空間の絶対性の中に踏み込んでいこうとする、大きな曲がり角を象徴している出来事だ、と言うのです。

 これから、人類はどんどんと、そういう「大地」を離れ、「場所」からの開放をはたしていくことになるだろう。しかし、そのとき人類が踏み込んでいくことになるのは、いままで彼が生きてきた世界と同じなりたちをした「場所」ではなく、幾何学的な構造をした、均質絶対空間なのであり、そこでは、「人間」という言葉さえ、いままでとは同じ意味をもちえなくなるであろう。そういう新しいホリゾントを、人類はついに開いてしまったのだ。そう、レヴィナスは、語っているのです。


大使のツボともいえるドキュメンタリー映画ですが、その倫理が語られています。
p286~288
<映像のエティック>
 ドキュメンタリー映画は、どんな場合でも、他者との向かいあいを体験しなければなりません。映画に撮られる人たちと、どんな親密な関係をつくりあげることができ、おたがいのあいだに信頼の感情が芽生えたとしても、映画を撮るという行為そのものは、けっしてナイーブなものではないので、そこには他者との向かいあい、という事態がおこらざるをえません。

 カメラを回す人間は、多少の居心地の悪さをがまんしさえすれば、他者との関係などという問題にかかずらわることなく、記録映画をつくりあげることはできるでしょう。しかし、映像はこの点にかんしては、嘘をつくのが下手です。記録映画をみている人は、記録されている民族学的な事実だけではなく、そこに実現されている「関係性」というのを、じつにシャープに感じとってしまうものです。

 カメラはその場に起こっていることを客観的に記録する機械ですから、映画を撮るものと撮られるものとの関係は、ふたりの間にカメラを挿入されることによって、たちどころに距離をつくりだします。どんな対象に共感を抱いていようとも、それを映像に記録しようという人は、もうそれだけで、状況にたいしては、ナイーブでいられなくなってしまうのです。

 民族学映画の場合には、その関係が、もっとシャープになってしまいます。高度テクノロジーのつくりだしたカメラを手にして、人類学や民族学のような知の近代システムで装備した頭をもって、伝統的な生活や習慣をおこなっている人々の前に出ていっただけで、もうそこには、ちょっとやそっとでごまかしのきかない、非対称な関係があらわなものとなってしまうからです。

 ですから、民族学映画に関心をもった人たちの間では、つねにこの「礼儀」の問題が意識されていたような気がします。今日は私は、礼儀とは何か、映画のエティックとは何か、という問題について、できるかぎり原理的なところからお話してみることによって、私たちの共通の関心である、礼儀正しい民族学的映画などというものが可能なのかという問題に、すこしでも迫ってみたいと思うのです。

 それに、今日ここで上映されたのがアイヌ民族の熊送りの儀礼をあつかった『イヨマンテ―熊おくり』だということも、私が映像のエティック(倫理)の問題をテーマに選んだことと、深い関係があるのです。

 イヨマンテの儀礼において、アイヌの人々は、もともと目で見ることはできない人間と神、人間と自然のエティカルな関係を、目に見えるかたちにして示そうとしているように思われます。アイヌの人々は、ひとつの儀式を演じようとしています。人々は神に語りかけ、神のもとに熊のたましいが送りかえされていく光景を、ありありと「見よう」とするのです。

 それをつうじて、アイヌの人々はスピリチュアルな「関係」を、すこしでも目に見えるかたちにしようとしているわけですから、ここでは言葉によらない霊的な表現がおこなわれていたのだ、ということがわかります。

ところで、先日『牡蠣工場』というドキュメンタリー映画を観たのだが・・・
撮られる人たちに対して監督から払われた礼儀というものが、感じられたのです。

『東方的』1
『東方的』2

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