『英語化は愚民化』2

<『英語化は愚民化』2>
本屋で『英語化は愚民化』を立ち読みしたが・・・・
1日ほどの冷却期間をおいて買ったのです。まあ、衝動買いになるんでしょうね♪

ところが、買った後、途中まで読んで積読状態に陥っていたので、これではアカン!ということで(その2)として再読しています。

【英語化は愚民化】
英語

施光恒著、集英社、2015年刊

<「BOOK」データベース>より
英語化を進める大学に巨額の補助金を与える教育改革から、英語を公用語とする英語特区の提案まで。日本社会を英語化する政策の暴走が始まった。英語化推進派のお題目は国際競争力の向上。しかし、それはまやかしだ。社会の第一線が英語化されれば、知的な活動を日本語で行ってきた中間層は没落し、格差が固定化。多数の国民が母国語で活躍してこそ国家と経済が発展するという現代政治学の最前線の分析と逆行する道を歩むことになるのだ。「愚民化」を強いられた国民はグローバル資本に仕える奴隷と化すのか。気鋭の政治学者が英語化政策の虚妄を撃つ!

<読む前の大使寸評>
アメリカ仕込みのエスタブリッシュが企てているんだろうと、漠然とした如何わしさを感じていたが、やはりそうだったのか。

rakuten英語化は愚民化


外国人から言われるまでもなく、「まず母国語を豊かにせよ」と大使でさえ思うのです
p71~72
<まず母国語を豊かにせよ>
 ホイットニーからの返答は、おおよそ次のようなものだった。
 母語を棄て、外国語による近代化を図った国で成功したものなど、ほとんどない。しかも、簡易化された英語を用いるというのでは、英語国の政治や社会、あるいは文学などの文明の成果を獲得する手段として覚束ない。

 そもそも、英語を日本の「国語」として採用すれば、まず新しい言葉を覚え、それから学問をすることになってしまい、時間に余裕のない大多数の人々が、実質的に学問をすることが難しくなってしまう。その結果、英語学習に割く時間のふんだんにある少数の特権階級だけがすべての文化を独占することになり、一般大衆との間に大きな較差と断絶が生じてしまうだろう。

 まさに、ホイットニーが懸念したのは、前章で見たラテン語から「土着語」への知識の「翻訳」の努力を通じてヨーロッパの庶民が享受した知的な進歩への道を、日本人が自ら閉ざしてしまうのではないかということだったのだ。
 さらに、ホイットニーは次のように述べ、森有礼に日本語による近代化を勧めている。
 「たとえ完全に整った国民教育体系をもってしても、多数の国民に新奇な言語を教え、彼らを相当高い知的レベルにまで引き上げるには大変長い時間を要するでしょう。もし大衆を啓蒙しようというのであれば、主として母国語を通じて行われなくてはなりません」
 そしてホイットニーは、日本文化の「進歩」のなかには、「母国語を豊かにする」ことが含まれなければならないと説いた。豊かになった「国語」こそ、日本の文化を増進する手段であり、それが一般大衆を文化的に高めることにつながるというのである。


新自由主義、グローバリズムに隠された英語偏重が述べられています。
p144~145
<英語教育改革の狙い>
 英語偏重の教育改革提案は、こうした日本の経済的状況、および効果の疑わしい経済政策を背景に進められている。児童・生徒の将来の幸福や日本という国の長期的な安定や発展、日本の学術文化の興隆といった観点からではなく、新自由主義的なビジネスの論理から来ているのだ。

 ビジネスの論理が英語教育改革に求めていることは、これまで見てきた成長戦略を念頭に置けば、よくわかる。

 すなわち、一つは、「世界市場を奪取する」ための人材づくりだ。世界市場の奪取のための人材づくりという面は、非常に明瞭である。実際、「日本再興戦略」には、文言が並んでいる。

 「今や日本の若者は世界の若者との競争にさらされている。将来の日本を担う若者が、国際マーケットでの競争に勝ち抜き、学術研究や文化・国際貢献の面でも世界の舞台で活躍できるようにするためには、まず何よりも教育する側、すなわち学校を世界標準に変えていくことを急がなければならない」
 「『鉄は熱いうちに打て』のことわざどおり、初等中等教育段階からの英語教育を強化し、高等教育等における留学機会を抜本的に拡充し、世界と戦える人材を育てる」


道徳観について、日本とアングロサクソンとを対比して述べられています。
p166~168
<言語間で異なる道徳のとらえ方>
 このような日本語の特性は、文化のさまざまな側面に影響を及ぼしている。たとえば、日本と、英語を母語とする国とでは、それぞれ異なる道徳の見方が発達する。

 日本では、「思いやり」「気配り」「譲り合い」といった価値が強調される傾向が生じる。状況認識や他者との関係性の認識が先で、それに応じて臨機応変に自分を規定していくという柔軟な日本人の自己認識のあり方は、「思いやり」「気配り」「譲り合い」の精神を育みやすい。

 自身の主張や要求を、状況や他者の観点に照らして、お互いにより望ましい形に事前に調整しあう。そして各人には、場の複雑な状況や他者の観点を鋭敏に読み取るための「共感能力」や「感受性」、また自分を客観的に見つめ、必用であれば自分のこれまでの認識や考え方、行為を柔軟に修正していくための「反省」の能力が求められる。そういうものが日本人の道徳観となりやすいのだ。

 他方、英語を母語とする人々であれば、自己は最初から中心に位置するので、複数の人々の自己主張は前もって調整されず、衝突し合うことが前提とされやすい。そこで、英語圏だと、互いの自己主張のぶつかり合いを事後的に調整する「公正さ」という理念や、それを体現する法律やルールの明記や順守が強調される傾向がある。

 戦後を代表する経営者、出光佐三氏は、日本の道徳の特性を「互譲互助」と称した。文字通り、「互いに譲り合い、助け合う」という意味である。日本語は、「互譲互助」タイプの道徳を求め、育成する言語という側面がある。

「思いやり」や「優しさ」を大切にし、他者の気持ちを感受する能力や反省能力の発揮を通じた調整を重んじる日本語の世界と、「公正さ」という理念を掲げ、「法」「ルール」による事後的調整を重んじる英語圏のあり方。どちらの道徳の見方が優れているというものではなく文化的相違の問題だが、多くの日本人にとっては、慣れ親しんだ日本の見方のほうが好ましく感じられるのではないだろうか。


『英語化は愚民化』1byドングリ

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