『セルデンの中国地図』3

<『セルデンの中国地図』3>
図書館に予約していた『セルデンの中国地図』という本をゲットしたのです。
この本には、海南島沖の米中軍用機衝突事件の顛末が載っているわけで、歴史的にも、社会学的にも読める多角的な視点が・・・・ええでぇ♪

つい先日、『疾走中国』という本を読んだところだが、昨今の大使は「東アジア」がミニブームでんがな♪


【セルデンの中国地図】
地図

ティモシー・ブルック著、太田出版、2015年刊

<「BOOK」データベース>より
400年のときを経て1枚の地図が歴史を変えた。英国で発見された中国の古地図には、鎖国下の日本を含む東アジアによる大航海時代の記録が残されていた!世界に衝撃を与えた地図の謎に迫る歴史ノンフィクション。
【目次】
第1章 この地図の何が問題なのか?/第2章 閉鎖海論/第3章 オックスフォードで中国語を読む/第4章 ジョン・セーリスとチャイナ・キャプテン/第5章 羅針図/第6章 中国からの航海/第7章 天円地方/第8章 セルデン地図の秘密

<読む前の大使寸評>
この本には、海南島沖の米中軍用機衝突事件の顛末が載っているわけで、歴史的にも、社会学的にも読める多角的な視点が・・・・ええでぇ♪

<図書館予約:(2/04予約、2/09受取)>

rakutenセルデンの中国地図


セルデン地図の謎解きに踏み出したが、謎解きはなかなかはかどりません。
p47~67
<第2章 閉鎖海論>
 セルデンの大量の蔵書がテムズ川から荷馬車で運ばれてくると、ウッドは図書館長のトマス・バーロウに手伝いを申し出て、荷をほどき、仕分けをした。地図の入った細長い箱はボドリアン図書館に届けられた何百という箱のなかのひとつにすぎなかったのかもしれない。ウッドはそれを特別扱いするようなことはしなかった。

 セルデンは、ロンドンのホワイトフライアーズにあった自宅に当時はまだめずらしかった造りつけの書棚を持っており、かなり整然と書籍や写本を並べていた。梱包を担当した者たちは書棚に並べていた順番を守って整理するよう努め、それがセルデンの死後作られた蔵書目録のもとになった。とはいえ、オックスフォードで荷解きされたときに少し混乱したことは大いに考えられる。セルデンの蔵書は一冊一冊どの本か確かめられてから、図書館の西端にある書架に運ばれた。この一角はのちに「セルデン・エンド」と呼ばれるようになる。

 これは、ボドリアン図書館が一度に寄贈を受けた書籍と写本としては最大のコレクションだった。当時の基準で言えば、この寄贈の受け入れには多額の費用がかかった。館長のバーロウは、セルデンの寄贈書の整理があまりにも負担が大きかったため、職を辞したという。
(中略)

 セルデンは1654年6月11日に遺言書を作成している。遺言には、学者として築いた資産の処分方法が補足書として添えられていた。補足書には「中国の地図」という記述があるが、セルデンによるこの地図への言及はそのほかの文献には見られない。また、蔵書のなかで彼が題名を挙げて言及しているのはこの地図だけであることも注目に値する。これ以外の書籍と写本は単純に分類でしか触れられていないからだ。セルデンは「ヘブライ語、シリア語、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語、あるいは通常東洋語として理解されるあらゆる言語」で書かれた蔵書に注意を向けさせてはいるが、どれひとつとして題名を挙げてはいない。
(中略) 
 遺言の補足書ではこれらの資料をオックスフォード大学に寄贈すると指定されているはずなのに、具体的な寄贈先は書かれていない。
 「中国の地図」についてはその何行かあとに登場し、この地図を「前記の総長、教授、学部在学生」に贈るものとするとセルデンは述べている。「前記の」と書かれているからには、これらの大学関係者が所属する大学がすでに指定されているはずだが、それに該当する文言は見あたらない。何かが欠落しているのだ。
(中略)

 寄贈品の受取人が文章から抜け落ちていたのはセルデン本人の意向でもまちがいでもない。1655年2月にセルデンの遺言書が裁判所に提出されたときに、書記官は単純に一行飛ばして原本を書き写してしまったようだ。そしてその遺言書が証人立会いのもとで法的に有効とされたのである。


お話は日本にまで及びます。
p129~131
<第4章 ジョン・セーリスとチャイナ・キャプテン>
 1613年6月9日、セーリスは日本の南部の海岸に到着する。彼はウィリアム・アダムズ(日本名、三浦按針)を探していた。アダムズは1600年に日本の海岸に漂着したのだった。太平洋を横断していたオランダ船に乗っていた一握りの生存者のひとりで、日本を訪れた初めてのイングランド人だった。それからの13年のあいだ、徳川家康に仕え、日本周辺の海域に精通するようになっていた。

 イングランドの東インド会社は、英日貿易を始めるにあたり、貴重な人材としてアダムズに狙いを定めていた。その狙いは正しく、アダムズには会社の目的に力を貸すのにやぶさかではなかった。日本人の妻を娶り、子供も生まれて、日本の社会にすっかり溶け込んでいたアダムズは、日本周辺の海域ばかりではなく、複雑な政治的、社会的な領域をも熟知しており、東インド会社のために、近所の住民から将軍にいたるまであらゆる人間との交渉にあたることができた。また船長としても航海長としても熟練しており、のちには同社のために中国の海岸沿いを運搬船のジャンクで航行している。

 セーリスが到着したとき、アダムズは平戸にはいなかったが、そこにはヨーロッパ人が幾人かいた。彼らをとおして、セーリスは平戸藩主に会い、藩主から日本で商売している年上の中国人商人を紹介された。この中国人は名を李旦といった。李旦がセーリスの日誌に初めて登場するのは、セーリスが平戸に到着してから6日後にあたる1613年6月16日。セーリスが開設を目指していた商館の大家の候補として記されている。セーリスは李旦の名前を「キャプテン・アンデイス」と記し、「中国人の頭領」だと見なしている。李旦とセーリスは馬が合ったようだ。
(中略)

 李旦の人生と彼が生きた時代を今日の私たちが知ることができるのは、平戸商館長リチャード・コックスの日記のおかげである。日記のなかで現存する部分は1615年6月1日から始まる。その日の日記には李旦だけではなく、その弟の「キャプテン・フォウ(李華宇」の名前も記されている。
(中略)

 李兄弟は中国福建省沿岸の2大港町のひとつ、泉州の出身だった。その港からは当時、商人や肉体労働者のクーリーが東アジアの貿易ネットワークへと出帆したものだった。若き日の李旦は、アジアにおけるスペインの貿易拠点だったマニラに渡り、一財産築いた、というかコックスはそう推測したわけだが、1603年にスペインによる華僑の大量虐殺が起きると、マニラを去らざるをえなくなった。

 李華宇が1619年に、李旦が1625年にいずれも自然死で亡くなっていることを考えると、1613年の時点で兄弟は50歳前後だったと考えられる。ふたりはクローブ号が平戸に入港する頃には、日本の南端に住む何百人という華僑の貿易コミュニティの頭目となっており、ふたりとも長崎に居を構えていた。長崎は、ポルトガルが貿易を始めた場所であり、徳川幕府が鎖国令を布くとオランダが拠点を移すことになる場所だが、李兄弟が主に商売をしていたのは平戸である。平戸は当時、オランダとイングランドの貿易拠点となっていた。


当時の南シナ海界隈の貿易は、中国人が牛耳っていたそうです。
なお、鄭和の大航海については、チラッと述べるにとどまっています。
p147~148
<第5章 羅針盤>
 ヨーロッパの商人がアジアの水先案内人や航海長に頼りきりという事態は懸念のもとになった。アジアの海域に進出して間もない頃には、イングランドの東インド会社は主に中国人の水先案内人や航海長を使っていた。これは、南シナ海界隈の貿易を牛耳っているのが中国人だと認めていたからでもある。また、計算された政治的な取り組みでもあった。コックスはそれをパタニに駐在する東インド会社の同僚に宛てた手紙で明かしており、「すべての中国人に親切に、そして敬意をもって接する」よう助言している。

 その助言は、東インド会社が中国への参入手段を求めている、というただひとつの大前提に基いていた。同社のアジア戦略全体がそれにかかっていたからだ。コックスはイングランド人に、直接貿易の要請を退ける口実を明に与える行為をしてほしくなかった。パタニの同僚にはこっそりとこんなふうに言っている。「中国の皇帝がイングランド、オランダ、スペイン、ポルトガルが貿易をおこなっているアジアのあらゆる地域にスパイを送り込んでおり、中国の人民に対する彼らの態度や振る舞いを監視させているという情報を、私は確かにつかんでいる」

 朝廷が張りめぐらせる諜報計画があるなどという考えは少々いきすぎているかもしれないが、ヨーロッパ人が中国との取引で直面する果てしない困難や、目標達成の厳しさからそんな疑念が煽られたのだった。コックスはなんとしても中国との貿易実現への突破口を見つけたかったため、それを損なうようなことはいっさい望まなかった。中国に、イングランドが彼らの企みを知っていると感づかれないように、パタニの同僚にはこの話を外部に洩らさないよう釘を刺している。「私が手紙に書いたことは作り話ではなく真実だが、貴殿の胸だけにしまっておいてくれ」。コックスはそう手紙を結んでいる。


謎解きの最後です。
p262~263
<エピローグ 安息の地>
 17世紀前半、セルデン地図は、南シナ海を最も正確に描いた「海図」だった。それ以前にはこれより優れた地図はなかったし、それから40年のあいだもそうであり続けた。それでも、地図製作の歴史というさらに広い視点で見てみると、セルデン地図が歴史に影響を及ぼす機会はなかった。地図を製作した人物は、陸地からではなく海から描き始めるという独創的な方法を考案している。この方法は優れた直感の賜物であり、地球表面の湾曲という問題を半ば処理でき、その結果、息を呑むほど見事な地図が出来上がった。

 しかし、このほかに同様の地図を発見できないかぎり、研究する材料がない。セルデン地図の製作は一度かぎりのもので、同様の地図はほかにないのだろうか?想像しにくいことだが、確かに同様の地図は存在していない。製作者はどうやって描いたのかの説明を残さなかった。また、弟子を育てなかったため、彼が考案した方法を受け継ぎ、改良を重ねて地図製作の原則の域にまで高められることはなかった。現存する証拠が示すかぎり、何も教えられたり、受け継がれたりした形跡はない。研究はここで行き止まりだった。

 この地図がイングランドではなくヨーロッパ大陸に運ばれていれば、物語は変わっていたかもしれない。しかるべき人物に見せていれば、ヨーロッパの地図製作者に影響を与えていたかもしれないのだ。しかし、そういうことはなかった。

 リチャード・ハクルートとサミュエル・バーチャスは地図を見ていただろうが、地図を何かに活かしたという証拠はない。地図がオックスフォード大学に展示される頃には、地図製作の世界に影響を及ぼすには遅すぎた。ほかの進展があったからだ。セルデン地図の価値が下落したのは1640年だとかなりの確度で推定できる。その頃にはアムステルダムの偉大な地図製作者ヨアン・ブラウが、オランダ東インド会社のために、これ以上正確なものはないという中国周辺海のポルトラノ型海図を製作していたからだ。

 この海図を堺に、ヨーロッパ人はヨーロッパ製の中国周辺海の海図を信頼できるようになったのである。地図製作の資料として、もはやセルデン地図に頼る必用はなくなってしまった。1640年の時点で、セルデン地図は先駆的な地図とは言えなくなっていた。著名な科学者エドマンド・ハレーは、1705年にセルデン地図を見て、不正確だと一蹴している。
 そう理解してみると、セルデンの役割について評価が分かれることになるだろう。地図が保存されていたのはセルデンのおかげである。アジアの写本を収集しようという彼の情熱なしには、このような地図が存在したことすら、現代には伝わっていなかっただろう。しかしその反面、自宅にしまい込んだせいで、広く知られる機会を事実上奪ってしまったとも言えるのである。

スッキリした謎解きにはならなかったが、謎解きの過程が充分に知的興味をつないでくれました・・・著者の文才なんでしょうね。

ところで、ネットで「古地図」を巡っていたら「ゼンリンバーチャルミュージアム」というのが、ありました。
このサイトでは、『セルデンの中国地図』を載せているのかな?


江戸開府以前から昭和後期までの貴重な古地図をブラウザで見まくることが可能な「ゼンリンバーチャルミュージアム」より
地図

日本最大手の地図制作会社のゼンリンがこれまでに収集した国内外の古地図をデジタル化して公開しているサービスが「ZENRIN Virtual Museum」です。江戸開府以前から昭和後期までに作成されたさまざま種類の地図が約220個も公開されているとのことなので、実際に古地図を見まくってみました。

ゼンリンバーチャルミュージアム
http://www.zenrin.co.jp/zvm/

上記URLを開いたら「Collections 公開地図一覧」をクリック。

公開地図一覧のページでは「時代」と「分類」から公開されている地図を検索可能。公開されている地図の時代は「江戸開府前」から「昭和後期」まで多岐に及んでいます。

説明


『セルデンの中国地図』1
『セルデンの中国地図』2

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