『セルデンの中国地図』2

<『セルデンの中国地図』2>
図書館に予約していた『セルデンの中国地図』という本をゲットしたのです。
この本には、海南島沖の米中軍用機衝突事件の顛末が載っているわけで、歴史的にも、社会学的にも読める多角的な視点が・・・・ええでぇ♪

つい先日、『疾走中国』という本を読んだところだが、昨今の大使は「東アジア」がミニブームでんがな♪


【セルデンの中国地図】
地図

ティモシー・ブルック著、太田出版、2015年刊

<「BOOK」データベース>より
400年のときを経て1枚の地図が歴史を変えた。英国で発見された中国の古地図には、鎖国下の日本を含む東アジアによる大航海時代の記録が残されていた!世界に衝撃を与えた地図の謎に迫る歴史ノンフィクション。
【目次】
第1章 この地図の何が問題なのか?/第2章 閉鎖海論/第3章 オックスフォードで中国語を読む/第4章 ジョン・セーリスとチャイナ・キャプテン/第5章 羅針図/第6章 中国からの航海/第7章 天円地方/第8章 セルデン地図の秘密

<読む前の大使寸評>
この本には、海南島沖の米中軍用機衝突事件の顛末が載っているわけで、歴史的にも、社会学的にも読める多角的な視点が・・・・ええでぇ♪

<図書館予約:(2/04予約、2/09受取)>

rakutenセルデンの中国地図


セルデン地図の謎解きあたりに、踏み込んでみましょう。
p38~42
<第1章 この地図の何が問題なのか?>
 あの日、私はこれが「セルデン地図」と呼ばれていることを知った。それ以外に表題はなかった。ジョン・セルデンのことはそれまで聞いたこともなかったから、寄贈者である彼と地図の関係など初めのうちはまったく興味が湧かなかった。しかしそれは変わることになる。のちに知ったことだが、セルデンは国際海洋法の生みの親のひとりであり、まさに国家が海洋に管轄権を主張できると提唱した最初の人物だった・・・・今、中国が南シナ海でをめぐって行っているのとまったく同じ主張である。この地図は誰が所有してもおかしくなかったのに、セルデンが持つことになったのはなぜだろう。私は興味を掻き立てられた。

 国家の管轄権の問題が初めて法律問題として生じたのは、クリストファー・コロンブスによる初の大西洋横断からわずか2年後のことである。1494年、ローマ教皇の特使立会いのもと、ヨーロッパのふたつの新興海洋国家スペインとポルトガルがスペインのトルドシリャスで顔を合わせた。地球上のどの部分をどちらが所有するかを決めるためである。所有者のいない土地、テラ・ヌリウス(terra nullius:ラテン語)はすべて、アフリカ大陸北西海岸沖のカーボヴェルデ緒等の西370リーグ(1200海里)に子午線を引き、この線を基準に分割することで条約が結ばれた。

 これにより、ポルトガルはブラジルの一部とともにアジアを手に入れた。ブラジルのかなりの部分がこの線からはみ出していることを条約の交渉担当者が知っていたのかどうかは定かではない。一方、分割線の西側はすべてスペインに帰属し、未来永劫その所有となり、スペインは南北アメリカ両大陸のほとんどと太平洋を手に入れた。この条約では、両国が相手国の海域を無害航行する権利も認められている。

 トルドシリャス条約は隣接する領土を持つ2国間の紛争を解決し、共存の枠組みを規定し、将来の紛争を防止するための国境条約として考案された。ただし、この条約は陸地ではなく海を対象としていたため、その影響は両国だけにとどまらなかった。この条約の条項は海に船を送り出すすべての国に、やがてはヨーロッパのほぼすべての国に影響を及ぼすこととなった。そしてトルドシリャス条約への反発が続いたことで、国際法が徐々に形作られていくことになる。

 海洋法、もっと広い意味で言えば国際法の基礎を築いた栄誉はたいてい、17世紀前半に活躍した才気あふれるオランダ人フーホ・デ・フロートに贈られる。ラテン語名グロティウスとしてのほうがよく知られる法学者だ。しかし私の考えでは、この栄誉はジョン・セルデンにも等しく贈られるべきである。

 次の章で見るように、セルデンはグロティウスによって提起された法律上の難題に挑み、それによって実際的な海洋法の基礎を築くことになったからだ。グロティウスが海洋を主権の支配下に置くことはできないと考えたのに対し、セルデンは正反対の主張をした。ただし、セルデンは特に南シナ海のことを取り上げて1国家の支配下にあると主張したわけではない。彼が主張したのは、海洋も陸地と同じように国家によって所有することができるということだった。これは奇妙なことに、中国が今日展開している主張でもある。

 セルデンが南シナ海についてどう考えていたのかはうかがい知る由もないが、彼は海洋法について考えをめぐらせており、海がセルデン地図の際立った視覚的特徴であることは議論の余地がないだろう。

 海洋法に対する彼の関心は当時の誰もが抱いていた関心が特化した形で現れたものだと言える。なぜなら、海は当時、全世界の関心の的だったからだ。それがどれほど幅広いものだったかを理解するには、あるヨーロッパ人歴史学者の推定がひとつの目安になるだろう。それによれば、セルデン地図がボドリアン図書館に収蔵された翌年にあたる1660年には、ヨーロッパの船1万隻が商品と市場を求めて海に出ていたという。そのうちのすべてではないが、多くはアジアに向かっていたことだろう。

 同じ目的で航海に出ていたアジアの船の数を集計する方法はなあいが、その総数は1万隻を上回っていたのはまちがいない。というのは、その頃、ヨーロッパ人が世界各地を航海し、現地の経済機構と貿易ができたのは、ヨーロッパ人ではない船乗りたちがすでに地域の貿易ネットワークを築き上げていたからであり、世界貿易はそのネットワークに頼って行われていたからだ。

 17世紀には、ヨーロッパの船乗りはアジア人が主役のドラマの脇役にすぎなかった。この時代にはまだ、ヨーロッパの船乗りが、アジアの同業者に技術面で勝っていることは少なかったのである。中国に赴いたイエズス会の宣教師、ルイ・ルコントはこう証言している。中国人は「ポルトガル人と同じくらい確実に」大海原を航海することができると。ルコントは中国船にもポルトガル船にも乗ったことがあったから、身をもって知っていたのだろう。世界は航海をとおして両側からひとつに紡ぎ直されようとしていたのである。
(中略)

 セルデンは過去の先例を巧みに法律に活かす以上の働きをした。彼が将来を見越すことができたのは、同時代のどんな法学者よりも徹底的に過去の記録を研究したからだった。そのなかには、中国の地図も含まれる。彼がこうした記録から得たのは海洋法の先例だけではなく、はるかに革新的な思想の基本となる概念もあった。法律の目的は支配者の力を守るものではなく、人々の自由を守るものなのだという概念である。

 セルデンのモットーはギリシャ語で、「peri pantos ten eleutherian」、つまり「何より大切なのは自由」だった。ひとりよがりの若者が恰好つけに言うような、陳腐な言い回しのように聞こえるかもしれないが、セルデンの場合、それは当時の圧政に逆らって行動するという誓いだった。

 彼自身、二世代の国王によって二度投獄され、身をもって圧政を体験している。またこの誓いが最初は法律への道へ、次に政界へ、そして最後にはヘブライ語を含めたアジア言語の研究へと彼を導いた。言語を研究したのは、文章を読み解くことで人間の基本的なあり方として自由を再構築できるようになるかもしれないという思いからだった。

 セルデンはこの地図に「何より大切なのは自由」とは書かなかった。地図にはカバーはないため、地図そのものを傷つけたくなかったのだろう。遺言書の記載以外には、この地図自体についても、それにまつわる事柄についても但し書きは残されていない。それでも、これから見ていくように、セルデンはこの地図の来歴に深くかかわっているのである。


 この本は、アジアの船乗りの力量を偏見なく述べているが、もうすぐ「鄭和の大航海」などが出てくるかな♪

 セルデン地図の謎はまだ解明されたわけではないが・・・この本が何を語ろうとしているのか、その方向が何となく分かりますね。
それにしても、セルデンの経歴に、二度の投獄とか、海洋法、アジア言語研究とか出てくるところが奥深いですね。

ボドリアン図書館のサイトでは、ズームイン機能付きのセルデンの中国地図が見られます。
The map came to the Library in 1659 from the estate of the London lawyer John Selden (who had died in 1654), along with a Chinese geomantic compass, a large collection of Oriental manuscripts, Greek marbles, and the famous Aztec history known as the Codex Mendoza.

『セルデンの中国地図』1

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック