『疾走中国』

<『疾走中国』>
図書館で『疾走中国』という本を手にしたのです。
2011年時点では、中国取材はここまでできたのか…
でも、スパイ疑惑で外国人記者を追い出すというハリネズミのように過敏な今では、こんな旅行は無理ではないかと思うのです。


【疾走中国】
疾走

ピーター・ヘスラー著、白水社、2011年刊

<「BOOK」データベース>より
【目次】
第1部 長城/第2部 村/第3部 工場
【著者情報】
1969年、米国ミズーリ州生まれ。プリンストン大学卒業後、オックスフォード大学で英文学を学ぶ。1996年、平和部隊に参加し、中国四川省の長江流域の町にある地方大学で2年間、英語教師として教鞭をとる。2000~07年、『ニューヨーカー』北京特派員。2008年、“全米雑誌賞”を受賞。現在はフリージャーナリストとして活躍

<読む前の大使寸評>
2011年時点では、中国取材はここまでできたのか…
でも、スパイ疑惑で外国人記者を追い出すというハリネズミのように過敏な今では、こんな旅行は無理ではないかと思うのです。

rakuten疾走中国


まず、長距離ドライブの雰囲気が出ているあたりを見てみましょう。
p23~26
<長城>
 中国で万里の長城を研究しているのは学問の世界に属さない人たちだ。北京には歴史愛好家たちの小グループがいくつかあり、文献調査とフィールドワークを結びつけようとしている。また陳老のような、在野の研究家も地方にはいる。陳老は、自分の研究を出版してくれる出版社をいつか見つけたいと思っていた。原稿と集めた工芸品を私に見せてから、陳老は近くの長城遺跡を見に行こうと誘ってくれた。

 私たちはシティ・スペシャルに乗り込み、未舗装の道を北へ向かった。村から数キロ行ったところで車を止め、陳老に続いて低い草地を進む。老人は村の男たちがよくするように頭を垂れ、両手を後ろで組んで考え事をしながらゆっくり歩き、やがて、草で覆われた盛り土が見えると、足を止めて指さした。

 「これは北魏が造った長城です」。北魏とは、西暦386年から534年までこのあたりを支配した王朝だ。この長城は何百年も風雨にさらされ、いまでは丘の上を北東に向かって延びる。高さ60センチほどのただの隆起物にしか見えない。これを横切るように1本の盛り土が延びていたが、こちらのほうは消えかけていて、陳老に言われるまで私は気がつかなかった。「あれは漢の長城だ」。さらに古い時代のものだ。漢は紀元前206年から西暦220年まで続いた王朝だ。さらにもう一つ、山のはるか上には明の長城がそびえていた。高さ2メートル近いこの明の長城は西から東へ、見渡す限り続いている。古代要塞のなかでは明の防壁は比較的新しく、建設からほんの4世紀しかたっていない。

 「私は何年もずっとこの光景を見てきました」と陳老は語った。「あるとき、ふと思ったんです。長城はどうしてここにあるんだろう、どうやって建てたのかと。それで調べ始めたのです」
 
 私たちは村へ戻って陳老の家でもう一杯お茶を飲んだ。村の名前は「寧息胡魯」を略したもので「胡を平定せよ」という意味だという。「胡」とは、昔の中国人が北方に住む非定住の人びとを指して使った言葉だ。特定の民族や部族を指すのではなく、よそ者すべてに当てはまる蔑称だ。最後の「魯」はさらに単刀直入で、「野蛮人」という意味だった。

 「突き詰めていえば、村の名前は『よそ者を殺せ』という意味になります」と陳老は笑いながら言い、私の地図帳を開いて、15キロほど東の村を指した。「ごらんなさい、ここは威魯、つまり『野蛮人を威圧せよ』という村ですよ」。「胡をたたきのめせ」という意味の破虎という町もあった。「胡をたたけ」「胡を威圧せよ」「野蛮人を制圧せよ」「胡を殺せ」などという名の村々が散らばっている。ただし、現代の地図には「胡」の代わりに「虎」の文字が使われている。こうした書き換えが始まったのは清の時代だ。清王朝の満州族の支配者たちは、長城の外からやってきた諸民族を表す言葉に敏感に反応したのだ。だが、書き換えはうわべを取り繕っただけだ。元来の意味は、村を見下ろす長城のように、はっきりと見えている。

 私は午後遅く、寧魯堡の村を出発した。太陽が畑の向こうに沈みかけていた。陳老が車まで見送りに来てくれた。興味津々の村人たちも何人か一緒に来た。男性たちはたいてい古い軍服を着ている。着古し、薄汚れて、だぶだぶの軍服に囲まれていると、決死の任務に出発するような気分になってきた。私の次の目的地は北方の丘が連なる地、色あせた峰々が続く辺境だ。陳老は私の手を握ってお元気でと言った。「また来てください。今度は考古学者と一緒に」

 葉の色が金色に変わりはじめたポプラ並木をしばらく走ると、やがて道路は裸山を登っていく。ほかに車は1台も走っていない。標高1800メートルの地点で、道路は明の時代の長城を突っ切っていた。この長城は山西省の境界線の役目もしている。自動車道を通すためここでいにしえの長城が分断されたのだった。コンクリートの柱が、ここが内モンゴル自治区への入り口だと示している。ここが中北部のもっとも奥まった地域、私がこれまで訪れたなかでもっとも人口の少ない地だ。

 走り続けると、分かれ道に行き当たった。泥の小道が本道から分かれ、峰に沿って走っている。私はわき道を数百メートル進んだところで車を止めた。テントも寝袋も持っていたし、野宿するには絶好の夜だ。空気は澄みきっていて、谷から見上げると満天の星がまたたいていた。テントの中で翌日に訪れる辺境の村々(胡をたたきのめせ、胡を殺せ)のことを考えながら、私はいつの間にか眠っていた。
(中略)

 日が暮れると心配になるのは、誰かに、とくに警官に尋問されるのではないかということだった。中国には長距離ドライブを楽しむ習慣はまだなかったし、外国人は厳しい統制下におかれていたのだ。レンタカーのシティ・スペシャルを北京市外に持ち出すのは禁止されていた。西部には、貧困や民族対立や軍事施設などを見せまいと、外国人を完全に締め出している地域がある。それに、国内のどこであれ、外国人記者は訪れる前に地元当局に申請することになっていた。それで、私はテントを車に積んでいたのだ。地方のホテルは宿泊客リストを警察に提出するから、なるべく泊まりたくなかった。


更に、黄土高原のあたりを読み進めました。
黄土

p35~36
 私は南へ西へとドライブし、蒼頭河に並行する一連の狼煙台に沿って進んだ。河北をあとにして以来、訪れる地は次第に貧しくなってきたが、いまや私は中北部の高地にいる。ここで人びとは黄土の上で生活している。黄土とは乾いた細かな土で、もともとはゴビ砂漠をはじめ北西部の砂漠地帯から南へ風で運ばれたものだ。

 数千年もの間に何層にも積み重なり、いまでは黄色い土が180メートルもの厚さに達するところがある。黄土はもろいが肥沃で、かつてこの地域は森林に覆われていた。しかし、何世紀にもわたって人口過剰が続いたため、植生は破壊され、いまは土がむき出しになっている。森が消えたあと、人びとは丘に段々畑を造った。今日、この地の風景はただ何段もの泥の固まり、人の手による絶望的な建設事業にしか見えない。

 雨はめったに降らない。年間降水量はわずか250ミリほどだ。そんなにわずかな雨も、もろい土を浸食する。干上がった細い水路が溝を造り、小川となって周囲の丘から何百メートルも下へと流れた跡もある。農家の人たちは、「窯洞」と呼ばれる質素な穴居に住んでいる。黄土を掘って作った窯洞は、夏は涼しく冬は暖かい住まいだが、地震が起きたらひっとたまりもない。明の時代の記録には、1556年の大地震で何十万人もの犠牲者が出たと記されている。

 長城の建設は、地域の環境劣化の主な原因ではなかったにしろ、一つの原因であったことは間違いない。長城は建設が進むにつれて、いたるところで資源を使い尽くした。


p51~53
 これまで旅をしてきた東部では、長城は岩だらけの山の尾根に沿ってどっしりと構えていて、その姿から、河北地方の光景は変わることがないと実感できた。ところが西に進むと、風景は次第に変わりやすくなる。運転席から見ていると、国土そのものが崩れていくようにも感じられる。岩だらけの山から乾いた平原へ、そして黄土高原へと進んできた私は、いまや絶えず姿を変える砂漠の砂と向き合っていた。

 ここにも長城は残っているが、もはやそれは変わらぬ景色の象徴ではない。オルドスの砂漠が南へ南へと忍び寄っていた。明王朝が建てた巨大な壁も、ここでは砂漠の筋模様のように見える。

 不毛の地を改良しようとする人びとの試みは、長城を越えて広がっていた。砂漠化との戦いは中国北部一帯の共通課題だ。砂漠化の波は国土の四分の一以上を襲い、そのうえ毎年推計30万ヘクタールの土地を新たにのみ込んでいるという。国連によれば砂漠化の恐れのある地域の人口は四億人。北部の人びとの暮らしを持続可能にするために政府が打ち出したプロジェクトは、植林から大規模な灌漑工事までさまざまだ。もっとも大がかりな計画は長江水路迂回工事であろう。

 水資源が豊富な南部から北部へと水を引く100億ドル規模のプロジェクトだ。こうした解決策がどの程度の効果を上げるかはわからない。若年層の大部分が南部へ移住するというのに、水を北部に引いても無意味かもしれないのだ。

 オルドス地方は農業に適していない。北部でもここはそもそも定住すべき地ではなかった。昔から住んでいたのは遊牧民に限られていたが、19世紀になると、貧困と戦争に追われた人びとが移り住みはじめた。1949年の革命後は、共産主義政権が長城を越えた大量移住を奨励した。

 楡林の北方に広がる砂漠地帯で、中国式の農業がさかんになるのを期待したのだ。木や草だけでなく、ときにはコメを植えようと、大々的なキャンペーンが断続的に続けられた。わずかばかりの小川や湖の水は灌漑に利用された。当然のことながら、昔からこの地に住むモンゴル系の遊牧民は、ことはそんなにうまくいくはずはないと言ってこうしたキャンペーンに反対した。が、ときとして政治は人の経験を超えることがある。

 1960年代から70年代の文化大革命のさなかに、この地方の烏審旗という地域が模範的人民公社として有名になった。砂漠のほかの地域も烏審旗を見習い、灌漑水路を掘り、穀物を植えるように奨励された。ところが80年代になると、烏審旗の実験が悲惨な結果を招いたことが明らかになる。人口増加と外来種作物の植えつけによって、貴重な水資源が枯渇してしまったのだ。

 近年になって、地元政府は新しい施策を試みた。コメや穀物を植える代わりに柳の種を植え、その葉を羊の飼料に利用したのである。この事業は「」と名づけられた。なあにしろ、枝から葉をむしり取れば羊の飼料が得られたし、柳自体も砂漠化防止に役立つと考えられたのである。ある意味でこの事業は成功した。地域の農地面積は全体の1割をしっかり維持していたし、住民は羊の数を増やすことができたのだ。

 私は、羊200頭を飼育するモンゴル族の家を訪ねた。家長の言葉によれば「暮らし向きはずっとよくなった。食べ物も着るものも、手に入りやすくなった」そうである。家長の北京語はたどたどしかった。「ゲル」と呼ばれるモンゴルの伝統的な天幕で育ったこの人は、いまやれんが造りの家に住んでいる。

 家の壁にはフェラーリ・モンディアルやハーレー・ダヴィットソンのポスターが貼ってあった。また中国の地図が1枚とチンギス・ハンの肖像画が2枚飾られ、毛沢東を祀る棚もある。祀り棚について尋ねると、家長は「毛沢東は解放者であり、偉大な指導者であり、よい人でした」と言い、モンゴル人なら誰でもチンギス・ハンの肖像を掲げるのだとも付け加えた。

 とはいえ、烏審旗における柳の植樹の効果は長続きしないように思われる。中国生まれの地理学者、〇鴻の調査によれば、地下水が減少しているのだ。砂漠での農業は限界に達していた。柳の植樹でさえ、もうこれ以上は無理なのだ。だが、〇鴻は、地元住民が地下水位の低下を知りながらも、植樹計画を支持しているとも指摘している。

 昔なら、住民は政府の強引な開発計画に反発したものだ。ところがいまは違う。以前は政府の開発計画といえば全体的、抽象的なものが多かった。たとえば、毛沢東は中国の生産力を高め、イギリスやアメリカを追い抜かなければならないと論じたが、こうした遠大な目標のせいで自分たちの環境が壊れるのを烏審旗などに住む遊牧民は快く思わなかった。ところが、トウ小平の改革開放以来、経済は基本的には個人の意欲で動くようになり、成果が突如として具体的になった。また、移動がさかんになり、よりよい生活とはどんなものか、人びとは感じ取ることができるようになった。

 「いまでは住民は外の世界を知っています。都市部へ行くこともあるし、テレビも見る。目にする物質的な豊かさを求めるようになったのです」と〇鴻は言う。人びとはより世俗的になったということもできるだろう。しかし、外の世界との接触は混乱を招いた。

 烏審旗で手にすることができる有限の資源から都市で手に入る無限の生産物へと、人びとは視座を移したのだ。外の世界を知ることによって、自分たちを取り巻く環境の現実を見失ったともいえるだろう。

ウーム、トウ小平の改革開放は中国人に幸福をもたらしたか?・・・と思う今日このごろである。

しかし、最近は、国家の機微に触れる発言があれば、国外にいても拘束拉致されるので、怖~い国やで。

著者は中国滞在歴が長い英語教師というよりも、いかにも行動力のあるジャーナリストのようですね♪ 

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