『職業としての小説家』5

<『職業としての小説家』5>
大学図書館で『職業としての小説家』をみっけ♪、市図書館の予約を解消し、借出したのであるが・・・
大学図書館は穴場やで♪


【職業としての小説家】
村上

村上春樹著、スイッチ・パブリッシング 、2015年刊

<「BOOK」データベース>より
「MONKEY」大好評連載の“村上春樹私的講演録”に、大幅な書き下ろし150枚を加え、読書界待望の渾身の一冊、ついに発刊!
【目次】
第一回 小説家は寛容な人種なのか/第二回 小説家になった頃/第三回 文学賞について/第四回 オリジナリティーについて/第五回 さて、何を書けばいいのか?/第六回 時間を味方につけるー長編小説を書くこと/第七回 どこまでも個人的でフィジカルな営み/第八回 学校について/第九回 どんな人物を登場させようか?/第十回 誰のために書くのか?/第十一回 海外へ出て行く。新しいフロンティア/第十二回 物語があるところ・河合隼雄先生の思い出

<読む前の大使寸評>
大学図書館でみっけ、市図書館の予約を解消し、借出したのであるが・・・
大学図書館は穴場やで♪

<図書館予約:(10/27予約、11/27大学図書館でみっけ、借出し)>

rakuten職業としての小説家

この本は読みどころ満載なんで、さらに(その5)として読み進めています。

芥川賞について、村上さんがどう思っていたのか、見てみましょう。
p58~61
<文学賞について>より
 僕が文壇からわりに遠いところにいたのは、ひとつには僕の側に「作家になろう」というつもりがもともとなかったからだと思います。普通の人間としてごく普通に生活を送っていて、あるときふと思い立って小説をひとつ書いて、それがいきなり新人賞をとってしまった。だから文壇がどういうものなのか、文学賞がどういうものなのか、そういう基礎的な知識をほとんどひとかけらも持っていなかったわけです。

 それからそのときは「本業」を持っていたので、日々の生活がなにしろ忙しく、片付けるべきものごとをひとつひとつ片付けていくだけで手一杯だった、ということもあります。身体がいくつあっても足りないというか、必要不可欠ではないものごとと関わりを持つような時間的余裕がなかったのです。

 専業作家になってからは、そこまで忙しくはなくなったけれど、思うところあって現実的に早寝早起きの生活を送るようになり、日常的に運動をするようになり、おかげで夜中にどこかに出かけるということもほとんどなくなりました。だから新宿のゴールデン街にも足を踏み入れたことがありません。ただ現実的にそういう場所に関わったり、足を運んだりする必要性も時間的余裕も、その当時の僕にはたまたまなかったというだけです。

 芥川賞に「魔力がある」のかどうか僕はよく知らないし、「権威がある」かどうかも知らないし、またそういうことを意識したこともありませんでした。これまでに誰がこの賞を取って、誰が取っていないのか、それもよく知りません。昔から興味があまりなかったし、今でも同じくらいありません。
(中略)

 僕は『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』という2作品でこの芥川賞の候補になりましたが、正直に申しまして、僕としては、とってもとらなくてもどちらでもいいと考えていました。
 
 『風の歌を聴け』という作品が文芸誌「群像」の新人賞に選ばれたときは本当に素直に嬉しかった。それは広く世界中に向かって断言できます。僕の人生におけるまさに画期的な出来事でした。というのは、その賞が作家としての「入場券」になったからです。入場券があるのとないのとでは、話はまったく違ってきます。目の前の門が開いたわけですから、そしてその入場券一枚さえあれば、あとのことはなんとでもなるだろうと僕は考えていました。芥川賞がどうこうなんて、その時点では考える余裕さえありませんでした。

 もうひとつ、その最初の2作品については、僕自身それほど納得していなかったということもあります。それらの作品を書いていて、自分が本来持っている力のまだ2,3割しか出せていないな、という実感がありました。なにしろ生まれて初めて書いたものなので、小説というものをどのように書けばいいのか、基本的な技術がよくわかっていなかったのです。今にして思えばということですが、「2,3割しか力を出せていない」ということが、逆にある種の良さになっている部分はなくはないと思います。しかしそれはそれとして、本人としては、作品の出来には満足しかねる部分は少なからずありました。

 だから入場券としてはそれなりに有効だけど、これくらいのレベルのもので「群像」新人賞に続いて芥川賞までもらってしまうと、逆に余分な荷物を背負い込むことになるかもしれない、という気がしたのです。今の段階でそこまで評価されるのは、いささか「トウーマッチ」なんじゃないかと。もっと平たく言えば「え、こんなものでいいんですか?」ということですね。

 時間をかければ、これよりもっと良いものが書けるはずだ―そういう思いが僕にはありました。ついこのあいだまで自分が小説を書くなんて考えてもいなかった人間としては、かなり傲慢な考えかもしれません。自分でもそう思います。でも個人的な見解を正直に述べさせていただければ、それくらいの傲慢さがなければ、人はだいたい小説家になんてなりはしません。

「とってもとらなくてもどちらでもいい」と・・・そう思っていても、そういう言い方が、良くなかったみたいですね(笑)


海外でも評判の村上さんだけど、村上さんはただ座って待っていたわけではないようです。
p269~285
<海外へ出て行く。新しいフロンティア>より
 僕の作品が本格的にアメリカに紹介され始めたのは、1980年も終わりに近い頃で、「講談社インターナショナル」(KI)から英語版『羊をめぐる冒険』がハードカバーで翻訳出版され、雑誌「ニューヨーカー」に短篇小説がいくつか採用・掲載されたのが始まりでした。

 当時、講談社はマンハッタンの中心地にオフィスを持っていて、現地で編集者を採用し、かなり積極的に活動を行っていました。アメリカでの出版事業に本格的に乗り出そうとしていたわけです。この会社は後に「講談社アメリカ」(KA)となります。詳しい事情はよくわかりませんが、講談社の子会社で現地法人ということになると思います。

 エルマー・ルークという中国系アメリカ人が編集の中心になり、ほかにも何人かの有能な現地スタッフ(広報や営業のスペシャリスト)がいました。社長は白井さんという方で、日本式なうるさいことはあまり言わず、アメリカ人スタッフにできるだけ自由に活動させてくれるタイプの人でした。だから社風もけっこうのびのびしていた。

 アメリカ人スタッフはずいぶん熱心に僕の本の出版をバックアップしてくれました。僕も少しあとになって、ニュージャージー州に住むようになったので、ニューヨークに出かけたときにはブロードウェイにあるKAのオフィスに寄り、彼らと親しく話をしたものです。日本の会社というより、雰囲気はアメリカの会社に近かった。全員が生粋のニューヨーカーで、いかにも元気が良くて有能で、一緒に仕事をしていて面白かった。(中略)

 アルフレッド・バーンバウムの新鮮な翻訳のおかげもあって、『羊をめぐる冒険』は予想以上に評判が良く、「ニューヨーク・タイムズ」も大きく取り上げてくれたし、ジョン・アップダイクは「ニューヨーカー」に長い好意的な論評を書いてくれたのですが、営業的には成功には程遠かったと思います。

 「講談社インターナショナル」という出版社自体がアメリカではまだ新参だったし、僕自身ももちろん無名だったし、そういう本は書店が良い場所に置いてくれません。今みたいに電子ブックとか、ネット販売みたいなものがあればよかったにかもしれませんが、そんなのはまだ先の話です。

 だからある程度話題にはなったけれど、それがそのまま販売には直結しなかった。この『羊をめぐる冒険』は後にヴィンテージからペーパーバックが出て、そちらは着実なロングセラーになっていますが。

 続いて『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ダンス・ダンス・ダンス』を出したのですが、それらもやはり批評的には良かったし、それなりに話題にはなったものの、全体的にいえば「カルト的」なところに留まって、やはり売れ行きにはもうひとつ結びつかなかった。

 その当時、日本は経済が絶好調で、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』というような本まで出て、いわゆる「行け行け」の時代だったのですが、ことカルチャーに関してはそれほど広がりを持っていませんでした。アメリカ人と話をしていても、話題になるのはだいたい経済問題で、文化関係は話題としては盛り上がらなかった。(中略)

 極端な言い方をすれば、日本は「金はふんだんに持っているけど、よく得体の知れない国」みたいなものとして、その当時は捉えられていたわけです。もちろん川端や谷崎や三島を読んで、日本文学を高く評価する人たちはいましたが、そういう人たちは結局のところ、ほんの一握りのインテリです。だいたいが都市部の「高踏的」な読書人です。

 だから「ニューヨーカー」に僕の短篇小説が何本か売れたときにはすごく嬉しかったんだけど、残念ながらそこからもう一段階ブレークすることはできませんでした。ロケットでいえば、初速はよかったんだけど、二段階目のブーストがきかなかった。ただそれ以来今日に至るまで、僕と「ニューヨーカー」誌との友好的な関係は、編集長や担当編集者が交代しても変化することなく、その雑誌は僕にとっての、アメリカにおける心強いホーム・グラウンドになりました。彼らは僕の作品スタイルを、ことのほか気に入ってくれたようで、「専属作家契約」というものを結んでくれました。あとでJ・D・サリンジャーが同じ契約を結んでいたことを知って、少なからず光栄に思いました。

(中略)
 結果的にはこの三人の出版人(ピンキー、メータ、フィスケットジョン)と結びついたことが、ものごとがうまく運んだひとつの大きな要因になっていると思います。彼らはとても有能で、熱意に溢れる人たちだったし、広いコネクションと、業界に対する確かな影響力を持っていました。

 それからクノップフの社内(名物)デザイナーであるチップ・キッドも、最初の『象の消滅』から最新の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』まで、僕のすべての本をデザインしてくれて、それはかなりの評判になりました。彼のブック・デザインを目にするのを楽しみに、僕の新刊を待っている人たちもいます。そういう人材に恵まれたことも大きかったでしょう。

 もうひとつの要因は、僕が「日本人の作家」であるという事実をテクニカルな意味合いで棚上げし、アメリカ人の作家と同じ土俵に立ってやっていこうと、最初に決心したことにあるのではないかと思います。僕は自分で翻訳者を見つけて個人的に翻訳してもらい、その翻訳を自分でチェックし、その英訳された原稿をエージェントに持ち込み、出版社に売ってもらうという方法をとりました。そうすれば、エージェントも出版社も、僕をアメリカ人の作家と同じスタンスで扱うことができます。つまり外国語で小説を書く外国人作家としてではなく、アメリカの作家たちと同じグラウンドに立ち、彼らと同じルールでプレイするわけです。まずそういうシステムをこちらでしっかり設定しました。

(中略)
 でも最初の段階でより目立ったのは、アメリカ国内での動きよりは、むしろヨーロッパ市場における僕の小説の発行部数の増加でした。ニューヨークを海外出版のハブ(中軸)に置いたことが、どうやらヨーロッパでの売り上げの伸びに繋がったようでした。それは僕にも予測できなかった展開でした。正直なところ、ニューヨークというハブの持つ意味がそこまで大きいとは考えなかった。僕としてはただ「英語なら読める」という理由で、またたまたまアメリカに住んでいたという理由で、アメリカをとりあえずホームグラウンドに設定しただけなのですが。

 アジア以外の国で、まず火がついたのはロシアや東欧で、それが徐々に西進し、西欧に移っていったという印象があります。1990年代半ばのことです。実に驚くべきことですが、ロシアのベストセラー・リスト十位の半分くらいを僕の本が占めたこともあったと聞いています。

 これはあくまで僕の個人的印象であり、確かな根拠・例証を示せと言われても困るのですが、歴史年表とつきあわせて振り返ると、その国の社会の基盤に何かしら大きな動揺(あるいは変容)があった後に、そこで僕の本が広く読まれるようになる傾向が世界的に見られたという気がします。ロシアや東欧地域で僕の本が急速に売れ始めたのは、共産主義体制の崩壊という巨大な地盤変化のあとでした。

 これまで確固として揺らぎなく見えた共産党独裁のシステムがあっけなく崩壊し、そのあとに希望と不安をないまぜにした「柔らかなカオス」がひたひたと押し寄せてくる。そのような価値観のシフトする状況にあって、僕の提供する物語が新しい自然なリアリティーのようなものを急速に帯び始めたのではないかと思うのです。


『職業としての小説家』1
『職業としての小説家』2
『職業としての小説家』3
『職業としての小説家』4


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック