『宮本常一 旅する民俗学者』

<宮本常一 旅する民俗学者>
図書館で佐野真一責任編集『宮本常一 旅する民俗学者』という本を手にしたが、責任編集というムック制作があるのか♪

まあ、宮本常一を世に知らしめたような佐野真一であるから、これはこれでいい企画だと思うのです。

【宮本常一 旅する民俗学者】
宮本

佐野真一責任編集、河出書房新社、2005年刊

<「BOOK」データベース>より
【目次】
口絵・宮本常一写真集成 オン・ザ・ロードー写真という「記憶の島」/巻頭言 佐野真一ー知恵の宝庫の発掘作業/宮本常一の思い出エッセイ/特別対談 谷川健一・佐野真一 旅する民俗学者ー今なぜ宮本常一なのか/宮本常一単行本・著作集未収録コレクション/宮本常一の継承エッセイ/評論/レポート/資料

<読む前の大使寸評>
責任編集というムック制作があるのか♪
まあ、宮本常一を世に知らしめたような佐野真一であるから、これはこれでいい企画だと思うのです。
rakuten宮本常一 旅する民俗学者


昨今では、お互い嫌い合っているような日韓関係であるが・・・
日韓の経由地ともいえる対馬について、宮本さんの取組みを見てみましょう。

<かなたの大陸を夢みた島>よりp35~38
 私は昭和25、26年の2回にわたって行われた九学会連合(宗教・社会・地理・民族・民俗・人類・考古・言語・心理)の対馬総合調査に参加しました。

 その時、対馬を歩いてみました。私が大変教えられたことがある。それは、対馬は朝鮮に近いのだから、住民の中には朝鮮人の血がうんとはいっておって、日本・朝鮮両方の混血状態がそこではみられるのではないか。朝鮮文化が非常にはいりこんできていて、独特な習俗がつくられているのではないか、と思っておったのです。ところが予想に反して、全然その逆だった。むしろ、私たちが想像していた以上に、そうだったのです。

 たとえば、住民の血液型を調べてその結果を集めると、A型が非常に多い。朝鮮人にはB型あるいはAB型が多いのです。それで血液型からいえば、対馬の人たちは、いわば純粋の日本人だといってよいことになるのです。
(中略)

 それからもう一つ、私たちが驚いたことがある。広幅銅剣、銅矛といわれるものがありますね。それが日本で一番たくさん出たのは、実は対馬なんです。ご承知でしょうけれども、銅剣、銅矛の類は中国から渡ってきたものです。そして中国から渡ってきた時には、みな細身のもの、武器としてきた。それが日本にくると、鋳直されて、武器ではなく祭器、祭る道具になってくる。したがって非常に薄いものになり、ベロベロのものになってしまう。

 しかも、日本で武器が祭器に変化する際に、それは二つに分かれ、西日本のほうは今いった銅剣、銅矛、広島から東にかけては銅矛になるわけです。その広幅銅剣、銅矛が対馬の西海岸から無数に出てくる。対馬にはたくさんの入江がありますが、入江の両側の尾根をずっと下った人も何も住んでいないところに、それが十なり二十なりまとまって埋めてあるんです。ですから、始めのうちは、そんな場所にあると誰も考えなかったので、発見がとても遅れている。

 まあ1ヶ所そういう場所が見つかると、同じような場所にも埋めてあるんじゃあないかということになって、次々に掘っていくと、たくさんの銅剣、銅矛が出てきたのです。

 このことは、何を意味するのかということになります。銅剣、銅矛がつくられた時期は、日本においてまだ大和朝廷の基礎が充分に固まっていない頃であった、とみてよい。つまり弥生式の後期から古墳時代の初期にあたります。そうした時期に、銅剣などを埋めた人は、おそらく国の護りとして、祈願のためにそうしたとしか、今のところ考えようがない。

 すると、中央集権が完全にできあがり、中央政府の強力な命令で祭事が行われたのではなく、そうでない時期に、すでに日本人は朝鮮半島というものを、一つの敵対する地域と認めて、その民族的な国境を考えておったと思わざるをえないのです。

 さらに古墳時代をみてみますと、対馬には、朝鮮にみられる、たとえば上方が細くなっていく、そうした石の積み方をする古墳は全然なくて、すべてが北九州系統のものなんです。

 そうなりますと、朝鮮からはいってきた文化は、対馬を経由したには違いないのですが、経由しながらそこには落ち着かないで、少なくとも九州まで行き、そこで一応定着した文化が、ふたたび対馬に帰ってきたということになる。

 そういう文化の伝播といった複雑な様相が、対馬には厳然として存在している。だから、一種の民族意識というか、国民意識とかいうものは、国家が形成せられる以前に、実は生まれてきているものではなかったのだろうか。このことは、私たちにとって非常に大きな問題として、これから考えていくべきことだと思います。
(中略)

■麦と米は朝鮮系統のものをつくっている
 それでは、対馬が大陸の文化と完全に断ち切られておるのかというと、そうとばかりはいえない。別の面から見ていくと、つながっているんです。

 対馬から帰って、植物学の中尾佐助さんに会った。あんたはなんでもよう気をつけるんだから、対馬の麦みただろうと聞かれた。ああ麦はみたよ。対馬は不思議なところだ。あそこの麦は裸麦ではなくて大麦のような気がするんだが、と答えたんです。

 ところが、中尾さんにきいてみると、この麦が朝鮮系の麦なんですね。朝鮮から渡来した麦が、そのまま対馬ではつくられている。麦が大陸からきたものであることは間違いないんですが、それが九州で改良されて裸麦になる。九州の古い文献をみてみると、麦やすという記載がある。これが裸麦のことなんです。

 近畿地方までは裸麦をつくっている。それから東へ行きますと大麦になる。まあ食べるとすれば大麦のほうがおいしいが、実を取るための工程でいろいろと手間がかかる。裸麦はとにかく板でも棒でもいいから、たたきつければすぐに実が出てくるから労働が楽なんです。そのためしだいに裸麦が多くつくられるようになった。それなのに、対馬は改良された大麦さえつくってない。朝鮮から渡ってきたままの大麦をつくっているのです。

 麦がそうなら、米もそうであっていいはずだと。事実その通りで、南の端の豆配というところでは、今でも赤米をつくっている。そこにある多久頭魂神社というお宮さんに供える米がそうなんです。九州の南でも赤米はつくっていますが、対馬のものとは違い、長い形のインディカという系統の米です。対馬のは丸く、明らかに朝鮮から渡ってきた系統のもとみてよいんです。


この本のメインイベントともいえる「特別対談:佐野真一×谷川健一」の一部を見てみましょう。

<今なぜ宮本常一なのか>よりp56~59
佐野:宮本常一さんという人に「ブーム」という言葉は似合いませんが、ここにきて時代の閉塞状況のせいでしょうか、宮本常一に対する伏流水のような、せせらぎのような注目がはじまっているような気がします。

 さまざまな媒体で取り上げられたり、相変わらず岩波文庫の『忘れられた日本人』ももう76刷とかで大変なロングセラーです。もちろん柳田国男、折口信夫に比べてまだまだ知る人ぞ知る存在ではあるけれど、今なぜ宮本常一が注目されているのかということをもう一回、ここで振り返ってもいいかなと思い、宮本常一の「第一発見者」といっていい、谷川さんとの対談を企画した次第です。

 谷川さんと宮本さんが最初に会われたのは、宮本さんの居候先、三田の渋沢敬三邸だったんでしょうか。

谷川:いえ、三田ではありません。本郷の「能勢」という旅館です。

佐野:そうでしたか。そのあたりからお願いします。

谷川:1950年代のはじめぐらいだったと思いますが、私は豪徳寺に住んでおりまして、土方久功という、パラオとかサテワヌとかの南洋の離島で7年間も暮らしたという絵描きさんがいたんです。

 その絵描きさんの奥さんが小児科医で、当時私が住んでいたアパートの近くだったものだから、私も風邪などで小児科医の奥さんの方にお世話になっているときにその旦那さんとも知り合いましてね。

 何かの会合があったときに、柳田先生の秘書の鎌田久子さんがみえました。久功さん自身が、パラオとかサテワヌの民俗誌や神話、伝説の研究もされていたので、土方さんは柳田邸に出入りしていて、その関係で鎌田さんも土方さんとお知り合いになって、それで土方さんのお宅の会合に鎌田さんも出られたんです。

 ちょうど私はそのころに平凡社におりましたが、会社が新しい企画を社員から募集していて、私は日本の伝統とか歴史を地域別に分けて考えてみたいという企画を持っていたわけです。というのは当時、児童百科事典の編集部にいたのですが、それをやっているとどうも民俗項目の部分がおもしろかったので、民俗学につながるような仕事をしたいと思い、鎌田さんに相談したんです。

 すると蒲田さんの先輩で、柳田先生の番頭格だった大藤時彦さんを推薦されて、大藤時彦さんが「では宮本君を入れよう」ということで三人に編者になってもらい、会社の許可を得て『風土記日本』がスタートしたわけです。

佐野:それは子供向けだたわけですか。宮本さんには、子供向けに書いた本もたくさんあります。

谷川:最初は子供向けだったんです。平凡社は『綴方風土記』という現代ものを出していたことがあったので、それを歴史的にやったらどうかということでした。

 しかし子供向けにしてやったら、中学生までは読めるけれど、どうも『風土記日本』の中身が子供向きには合わないものですから、大人が読めるものにしたいと思ったんです。(中略)

 それで、いろいろな出版社が共同出資して仕事や飲食の会合に使っていたのが、本郷にあるさきほどの能勢という京風のしゃれた旅館で、そこに宮本さんが来たのが最初の出会いでした。

佐野:そのとき、宮本さんはどんな恰好でしたか?

谷川:その恰好がなんとも珍妙なんです(笑)。洋服って言ったって、着物を黒く染め上げたような感じで、あれで洋服ができるんですかね。それからズックの靴ですよ。それで登山帽みたいなのをかぶって、にこにこしているんですよ。だから能勢の女中さんが、これは執筆者の先生なのかそうでないのかというので戸惑っているんです。チョロチョロと小走りに来て挨拶されまして、それからのお付き合いです。

佐野:ズック靴に和服を仕立て直した洋服ですか(笑)。いかにも宮本常一らしい。宮本さんの旅のスタイルは、汚れたリュックの背負い革にコウモリ傘を吊り下げ、脚にはゲートルを巻いて、というものですが、いつも富山の薬売りと間違えられたそうです。
 僕はよく冗談で、柳田国男は白足袋、宮本常一は地下足袋と言っているんですが(笑)。


宮本さんの著作ということで、先日『絵巻物に見る日本庶民生活誌』 を読みました。

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