『赤瀬川原平の日本美術観察隊(其の1)』2

<赤瀬川原平の日本美術観察隊(其の1)2>
図書館で、『赤瀬川原平の日本美術観察隊(其の1)』という本を手にしたのです。
日本美術観察隊ってか・・・・
たしか赤瀬川さんは「日本美術応援団」の団員第1号だったようで、言ったもん勝ちの世界では、群を抜いた人である。

とにかく、その企画力、独創性には・・・敵いませんなぁ♪

【赤瀬川原平の日本美術観察隊(其の1)】
赤瀬川

赤瀬川原平著、講談社、2003年刊

<「BOOK」データベース>より
五感で味わう“日本の美”。町並みに黄金を敷き詰めた「洛中洛外図」、若者ファッションの元祖「風神雷神」、石の庭園がなぜ怖いのか。
【目次】
高台寺霊屋・薄桐紋蒔絵扉/洛中洛外図屏風・歴博乙本/奥州安達がはらひとつやの図・月岡芳年画/変わり兜/燕子花図屏風・尾形光琳筆/地獄草紙雲火霧/旧江戸城写真帖・横山松三郎撮影/金印/聖徳太子二童子像/源氏物語絵巻・宿木三〔ほか〕

<読む前の大使寸評>
赤瀬川さんは「日本美術応援団」の団員第1号だそうで…言ったもん勝ちなんだろう♪
赤瀬川さんは模型千円札事件を起こしたりいろいろあったが、晩年に「老人力」という概念をぶちあげたことが大きいと思うわけです。

rakuten赤瀬川原平の日本美術観察隊(其の1)

この本は読みどころが多いので、(その2)として読み進めたのです。

この本から、赤瀬川さんの解説によるもう1枚の絵を見てみましょう。

<高雄観楓図屏風>p106
高雄

 画面全体の空気を決定しているのは、何といっても紅葉である。夏が過ぎて、少しずつ冷気が忍び寄り、さあこの先、もうちょっとしたらいよいよ冬に入るぞ、という秋の季節だ。

 冬になると動物も冬眠するし、生きものは寒いから出来るだけエネルギー消費を抑えて、じーっとその時季が去っていくのをやり過ごすことになる。だからそういう冬を前にすると、植物もこれが最後、ラストダンスだとばかりに、その表現力のすべてを出し切って紅葉するのではないだろうか。

 そういう季節の饗宴にあやかろうと、人間もお茶やお菓子を紅葉の下に持ち出して、飲んだり歌ったり踊ったりする。

 もみじ狩りというのだけど、ぼくは子供のころピンとこなかった。木が枯れてきて、楓の葉っぱが赤くなって、それがそんなにいいのだろうか。

 お花見ならわかる。桜の花がいっせいに白く咲いて、満開になり、風が吹くとひらひら散って、そのありさまは子供の目にも目出度い。非常にわかりやすい。でも秋の紅葉のよさは、子供にはわかりにくい。

 紅葉の魅力は大人のものだろうと思う。熟し切って消えてなくなる寸前の、寂しげな美しさ。

 この絵からは、そういう空気がよく伝わってくる。でも絵の中に登場する人々は、そんなことをいちいち考えたりせずに、じつに楽しそうだ。とにかく木の葉が全部あでやかな色に飾られたので、まあ楽しもうよという雰囲気である。

 全体を見ると、橋を挟んで左側に男の集まり、右側に女の集まりがある。男たちは楽器を持ち出して、歌ったり踊ったりしている。そこから中央の橋にかけては、黒衣の僧たちがちらほらといて、右側の女たちは車座になって、ひたすらよもやま話のようである。

 この女たちの、何というか、自信に満ちた存在感が凄い。肉体的自信というか、エロチシズムというより、生命の自信といえばいいのか、とにかくドンとこい、という力に満ちあふれている。

 女たちだけの集まりだからか、格式とか形式を配慮するストレスを完全に脱ぎ捨てた匂いがあって、その新鮮には驚くほどだ。

 画面左の男たちの集まりと比べると、その生命感というのがいっそう鮮やかになる。男たちもやはり楽しんではいるのだけど、この女たちの生命感のボリュームに比べたら、何と細々としていることだろうか。

 これはこれで気の合った、仲のいい集まりなのだろうが、やはり型というのをまず感じるのである。歌や踊りを楽しみながらも、やはりこの世の中の型を外れないように、技量の優劣をきちんと見据えながら、筋を重んじながら楽しんでいる、という感じで、やはり骨張っている。

 女たちの集まりが肉の温度に満ちあふれているのに比べて、男たちの集まりには骨の直線形をたどっているような、それを男の社会性というのか、外面的なものを強く感じて、ちょっと寂しい。自分も男で、この画面左側に属するのだと思うと、画面右の何かふくらんだ暖かさを羨ましくも思う。

 こういう絵が近代現代ならともかく、これは室町時代に描かれたもので、この双方を対比させた画家の筆力に驚く。絵がうまいというだけでなく、生命とその社会というものを当然のように掴んでいる。その掴んでいることを口ではいわないだろうが、絵筆が雄弁に描いてしまっている。
高雄

「高雄観楓図屏風」狩野秀頼筆


もう一枚の屏風絵を見てみましょう。

<本田平八郎姿絵屏風>p66
本田

 この絵の左側に立っているのが男が本田平八郎なのだった。
 ぱっと見て、すぐに男とは見えない。手つきや身振りなどちょっとなよっとっして、首にはマフラーのような布を巻いて、この時代にはこういう勝手な着方があったのだろうか。
 
 髪形もいわゆる男の、武士の髷ではないようで、しかし腰に大小の刀を差しているところでやっと男だとわかる。これはこの時代のかぶき者の、いわゆるニューファッションの姿だという。ちょっと崩した、いまの若者のズボンずり下げ的な感覚だろうか。

 背の小さいおかっぱの少女が男に向かって何か差し出していて、これは手紙らしい。いわゆる結び文というのを渡しに来た使いで、こういう小間使いの少女を禿(かむろ)というらしい。遊女の見習いである。

 こんな子供が、しかも売春婦の見習いとは、いまだったら人権問題だ!と青筋の立ちそうなところだが、しかし当時はごくふつうにあったことで、それでご飯を食べて人生を送れるだけでしあわせなのだった。

 しかしそれを禿とは、禿げ頭の禿である。おかっぱ頭の丸っこさを指してそういうのだろうか。

 さて一方、右画面に何人かの人々がいて、これは左画面の男との関係があるらしい。つまり男の方も手紙を出していて、それを、ほらほら、来たわよ、というのでみんなで見ている。

 受け取るのは中央のやや太目の女性。ふっくらと腹が出て、その帯に左手をちょっと指したりして、恰好はむしろ男っぽくて、これがしかし千姫だという噂である。

 千姫は有名である。徳川の、えーと何だったか、とにかく重要な息女で、嫁いだ先で戦か何かからんで、いろいろと悲運の物語があるようだが、そういう歴史上の複雑な事情は、ぼくの頭をすぐに通り抜けて消えてしまう。

 これが何故千姫かというと、着ている着物の柄が葵の紋で、この屏風の縁を飾る表具にも葵の紋が飾られていることによる。となると人間関係からして左に立つ男は本田平八郎となるようで、これは徳川側の大名となる人だ。そのあたりの事情については歴史の勉強が必要で、とにかくそういうことなのである。

 要するに男女間の手紙ややり取りを描いたもので、となるとほとんどこれはフェルメールのテーマだ。オランダ17世紀のフェルメールに手紙を見る女の絵がよくあり、その一つにやはり侍女が手紙を取りついで渡している図があった。渡された女は、ちょっと何か秘密を握られたような表情を見せていた。

 この絵でも、千姫の周りの人々の視線は物見高い。しかしこの場合は秘密というよりは公然のことのようで、侍女らしきものが読み上げているのを、千姫はやや頬を赤らめながらも、ふむふむと、じつに堂々とした態度で聞き入っている。

 千姫といえば美人のはずである。実際にどうだったかはともかく、物語上は美人でないとおさまらない。この千姫も美人として描かれているのであろうかが、しかし現代の我々から見ると、まずはどっしりとした風格を感じてしまう。体つきだけを見ればほとんど「どすこい!」である。たぶんいまとは美人観が違うのだ。


赤瀬川原平の日本美術観察隊(其の1)1byドングリ

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