「紙」あれこれ ③

<「紙」あれこれ>
デジタル新聞と契約した後も、新聞のスクラップ収集が止まらないのである。
日ごろから読書に明け暮れている大使は、紙との付き合いが長いのであるが・・・
電子書籍の出現に、不信感を募らせる今日この頃である。

ということで、紙について集めてみました。

・紙の科学
・ダンボール家具がすごい
・紙の教会
・和紙の源流
・和紙と暮らす
・画期的な書写材
・文字の文化史
・土佐紙



<紙の科学>
図書館で『紙の科学』という本を手にしたが・・・
和紙、製本、装丁、出版、図書館など、大使は、常に紙の周りを彷徨していたようです。ペーパーレス時代とまで言われるこの際、「紙の科学」に目をとおしておきたいのです。(チョット 吹いたかな)


【紙の科学】
紙

紙の機能研究会, 半田伸一著、日刊工業新聞社、2011年刊

<「BOOK」データベース>より
日頃何気なく使っているいろいろな紙。「記録」「吸収」「包装」という機能で、私たちの日常生活を支えてくれているのです。

<読む前の大使寸評>
和紙、製本、装丁、出版、図書館など、大使は、常に紙の周りを彷徨していたようです。ペーパーレス時代とまで言われるこの際、「紙の科学」に目をとおしておきたいのです。(チョット 吹いたかな)

rakuten紙の科学
『紙の科学』 byドングリ


冒頭の一節に紙の定義と歴史が載っています。
p2~5
<紙とは「植物繊維を漉いたもの」>
 紙の定義についてJISでは、「植物繊維、その他の繊維を膠着させて製造したもの」としています。多くは、「植物の繊維を水の中でほぐしてバラバラにし、網などで薄く漉いたもの」と記しているようです。

 つまり、紙といわれるものの材料は、一般的には「植物繊維」とされるものですが、他にも歴史的にみた場合、「布」や「羊皮紙」なども使われており、これらについても「広義の紙」とされています。

 布や羊皮紙などは、かつて欧米などで使われていました。布を原料にした紙布や羊皮をもんで作った羊皮紙などです。羊皮紙は、植物繊維を用いた紙がヨーロッパに伝わるまで1400年以上も使われていた経緯があります。

 紙の誕生は、文字と密接な関係があります。つまり、意思の伝達手段として、記号が使われ始め、それが発達して文字が作られていきますが、それを記すものとして「亀の甲羅」や「獣の骨」、「石」や「粘土板」「ヤシの葉」などが使われ始め、それが「記録する紙」のはじまりへとつながっていくのです。


紙は、辺境の地ニッポンで「和紙」として進化したようです。
p6~9
<西洋人を驚かせた日本の紙文化>
 日本への紙の伝来は、610年と言われています。朝鮮半島の国・高句麗の僧・曇徴によって、でした。つまり、紙は、「日本に仏教を広める目的によって伝えられた」といえます。

 このとき、紙の原料として用いられたのは麻でしたが、その後、楮(こうぞ:クワ科の落葉低木)が使われたことで、これが後に日本独自の「和紙」へと発展していきました。

 日本で、紙の原料が麻から楮に代わっていったのは、漉きあがった麻紙は表面が粗く、槌で打ったり、巻貝、動物の牙などで磨いたりして表面を平らに滑らかにし、さらに空隙を埋めるために、石膏、石灰、陶土などの白色の粉末を表面に塗布し、その上、墨のにじみを防ぐために、澱粉の粉を塗布するなどの加工を行うなど、その取扱い、製造が大変だったためです。

 楮の場合は、栽培が容易で収量も多く、毎年収穫できますし、繊維も取り出しやすいという特徴があります。

 日本の紙製造の祖としては、聖徳太子の名前も挙げられています。これは、「聖徳太子が紙作りの保護育成の政策を強力に推進した」ためで、「楮の栽培と製紙を奨励した結果、楮の皮の繊維を用いた雲紙などの楮紙が製造されるようになった」とされ、このことがわが国の製紙の基礎となったとするものです。
(中略)
 紙は初め、主に写経のための材料として使われ、平安時代は僧侶・貴族階級に限られるなど、一部の支配階級の人々しか使うことができませんでした。
(中略)
 鎌倉時代に入ると武士階級が使うようになり、文書記録に用いる実用的な紙が増えてきました。そしてこの鎌倉・室町時代には、紙を単なる書き記すためのものとしてだけではなく、湿気の多い日本特有の気候に対応するため、障子や襖として利用し、室内の湿気の吸入や排出をし、屏風などと合わせて外光を穏やかな散光に変えたりするという活用をし始めました。

 江戸時代になると紙は庶民にまで普及し、各藩では紙を専売品として生産を奨励、農民の副業としても紙漉が盛んに行われるようになって、半紙や障子紙のみならず、衣類や食器、家具、おもちゃなどの加工素材としても広く使われるようになりました。
(中略)
 屏風や障子、襖、提灯、扇子、草紙(本)、瓦版、浮世絵、かるたなど、様々な紙の活用に日本を訪れた西欧人が驚いたという記録もあります。日本独自の和紙は、生活の場で合理性の高い材料だったといえるでしょう。




<ダンボール家具がすごい>
ダンボール家具キットの省スペース性に目をつけた地方自治体が、震災対応備品として保管する例もあるそうです。すごい♪

軽くて強い、釘いらずで組み立て、リサイクル容易、組み立て前の省スペース
ダンボール家具の専門店 HOWAY



<紙の教会>
昨日のテレビ番組(世界ふしぎ発見!)で、「紙の教会」が出ていました。

紙3紙の大聖堂
坂茂建築設計より

日本人の設計でニュージーランドで建てられたそうだが、「紙の教会」とは、どこかで聞いたことがあるな~。
おお これはドングリ国にもあったはずだ♪・・・ということでネット検索してみたわけです。
関西今昔建築散歩というサイトに、その「紙の教会」が載っていました。

だけど、阪神大震災直後に建てられたその「紙の教会」はすでに台湾に移築されていて、現在は新しい「紙の教会」が建っているようです。

いずれにしてもドングリ国にこの教会があるなら・・・
見に行こうと思っているのです♪


紙の教会(鷹取教会)坂茂より
紙1

 1995年起きた阪神大震災で最も被害が大きかった地域の一つ、神戸市長田区にあります。
 震災直後集まって話し合う所がないことから、教会のあったココで、募金で集めた1000万円もとでに、ボランティアの人達の手で作られた紙でできた仮設の教会兼集会場です。 地震から10年経ち、神戸の中心地はすっかり綺麗な街になっていますが、まだこの長田区を実際歩くと、あちらこちらで区画整理などでまだまだ復興中です。街が元に戻ったとは全然言えません。

 街が元に戻りつつあるこの地で、ついにこの建物も教会として本来の姿に戻る時が来るようです。来年の2月か3月には、坂茂氏によって新たな教会が建てられるそうです。

 現在、この紙の教会は地震があった台湾中部に移築されています。



カトリックたかとり教会 坂茂より
紙2

 震災後仮の教会として建てられていた「紙の教会(現在、台湾に移築)」が建替えられ、この新しいたかとり教会ができました。低層の建物と、それで形成される中庭を分けるシャッターを開けることで、建物内部・外部をつなげています。
 礼拝所は他の部屋よりも高く、円錐状の形をしていて、敷地の隅にあります。


円筒状の紙は強度も強いそうで、安価でエコで素晴らしいではないか。



<和紙の源流>
プラント関連のエンジニアとして職歴を終えた大使であるが、地元の製紙企業への就職も選択肢のひとつに数えたこともあったわけで・・・
和紙に関しては、ひとかたならないこだわりがあるのです。

【和紙の源流】
和紙
久米康生著、岩波書店、2004年刊

<「BOOK」データベース>より
手すきによってつくられる日本の紙「和紙」は、その品質・風合いなどから世界的にも高い評価を受けている。東洋に伝わる手すき紙の伝統のなかで、とくに中国大陸や朝鮮半島との文化交流を通じて、和紙はどのように形づくられ、独自の発展を遂げるに至ったのか。海外の文献や現地での調査報告などをもとに、和紙の源流をさぐる。

<大使寸評>
プラント関連のエンジニアとして職歴を終えた大使であるが、地元の製紙企業への就職も選択肢のひとつに数えたこともあったわけで・・・
和紙に関しては、ひとかたならないこだわりがあるのです。
rakuten和紙の源流




<はじめに>pv~viiより
 産業革命の激流のなかにあったヨーロッパ製紙業界では、この機械漉き化が急速に進み、手漉き紙は短期間に衰滅したが、東洋では2世紀を経ても、多くの国でなお命脈を保っている。なぜ東洋の手漉き紙の生命力が強いのだろうか。この和紙の源流である中国を中心に東洋各地の手漉き紙の歴史をたどり、地域と民族による造紙法の差異を比較調査することを思い立ったのは、東洋の手漉き紙の伝統とたくましいエネルギーを改めて認識したかったからである。

 中国で紙が開発されたのは、近年の古代遺跡からの出土紙が語るように紀元前の前漢期であり、ヨーロッパで紙をつくりはじめたのは12世紀である。そして15世紀中期に活字印刷術が開発され、その普及につれて印刷用紙の需要が巨大となり、製紙業は機械力を活用してより安く速く量産するための改良が進められた。

 Paperは古代エジプトで文字を書いたpapyrusに由来し、一般に「紙は書写材である」として論じられている。その書写には、中国・日本などで軟らかい毛筆を用い、西欧は金属ペンなどの硬い筆記具を用いるので、それに適する紙質は異なるが、西欧の紙を改良する目標は筆写よりもむしろ印刷に重点を置いていたように思える。したがって、抄紙機による量産のために木材パルプを原料とし、両面印刷できるように白土などの填料を紙料に混ぜ、塗被剤や樹脂を塗工する技術が進んでいるが、紙の耐久性を損なっている。東洋の手漉き紙は、樹皮の靭皮繊維を主原料とし、その耐久性を重視し、書写材として文化情報の伝達に重要な役割を果たすとともに、各種の生活用品の加工素材となった。書写材としてのはかに生活文化材としての広い用途があったのがひとつの特徴である。

 中国貴州省のトン族は文字を持たないので書写材として使うことはないが、生活文化材として活用するために紙をつくっている。中国科学院自然科学史研究の『中国製紙技術史』には、隋唐代の紙について「文化的用途や文書のほかに、多くの日用品もすべて紙製品か紙製代用品を採用した」と記している。中国の書誌と紙史にくわしいシカゴ大学名誉教授銭存訓『中国書籍紙墨及印刷史論文集』には、「一般人の考えているように、紙を最初から書写用であったとするのは正しくない」「紙が重んじられるのは、主としてその価格が安く材質が軽いからであり、またそれによって各種の代用品をつくることができるからである」として、3-4世紀に扇子と雨傘となったほか時代別に数多くの紙製品の実例をあげている。

 低湿な気候の江南地域の歩兵が鉄製よりも紙製の鎧を用いたことは興味深く、また重くて持ち運べない金属貨幣に替えて、交易媒介のために9世紀から紙札を用いているなど、東洋の手漉き紙の生活文化材的用途は広く深い意味をふくんでいる。日本の皮革代用として加工した金皮紙が輸出されて西欧の王室などの壁面を飾ったのも、東洋と西洋の紙の質と用途の差を象徴している。


生活物資としての和紙が絶頂期のころのお話です。

<町人社会の生活物資としての紙>p171~174より
 中世の紙の主要な消費者は公家・僧侶と武家であったが、近世には大多数の町人が消費層に加わり、17世紀後期から紙種が多くなるとともに生産量も増大して重要な生活物資となった。近世前期には全国の貨物の約70%が大坂に集まるといわれ、大坂は「天下の台所」として、その時期の経済動向を最もよく反映していた。

 小葉田淳著『日本経済史』のなかの「江戸時代の和紙の発展と藩経済」によると、正徳4年(1714)の大坂市場入荷商品119種のうち1商品で銀高1万貫以上のものは米・菜種・干鰯・白毛綿・鉄・紙で、紙は1万4446貫で第6位の商品であった。そして元文元年(1736)の統計では大坂に出荷される紙の銀高が6884貫に減っているが、米・木材に次ぐ第3位の商品になっている。

 一方、江戸には徳川政権の幕府が設けられて、着々と都市づくりが進められ、江戸初期の紙はほとんど大坂から回送されるものに頼っていたが、中期頃からは関東周辺の紙産地が成長し、とくに武蔵・駿河・甲斐などから直接江戸市場に出荷された。大産地の常陸・下野・磐城などは大坂にも出荷したが、主として江戸に送るものが多く、中部地方の大産地美濃・越前などでも、京都・大坂よりも江戸送りが多くなったといわれる。

 中世には杉原紙が最も多く流通し、ついで檀紙・引合紙・美濃紙・奉書紙など文書用紙が主体であったが、近世には大多数の町人の求める、量産できる安い半紙・半切紙・塵紙などが主流となった。紙を半分に切って節約して用いることは中世からふえているが、近世の町人層は半紙類を常備して帳簿をつけ文書をつくり、半切紙に手紙を書いた。障子紙は毎年張り替え、鼻汁拭きや化粧・衛生用として小半紙・延紙・塵紙などを毎日使うようになっている。
(中略)
 ところで、このように急増した町人層の需要にこたえる生産体制をささえたのは、諸藩の紙専売制であったといえる。近世の幕藩体制のもとでは藩ごとに自給経済の政策がとられ、米の増産とともに商品作物の振興をはかり、その商品作物の急速な発展が領国内商品流通の範囲を超えて、全国的な市場の形成をうながし、領主の財政を窮迫させた。そこで諸藩はその対策として藩営専売制をしき、米・塩・綿・蝋などとともに紙も専売制に組み入れ、特産地が形成されて増産が進んだのである。
 この専売制は商品経済の発展していた機内以西で盛んであったが、紙も西日本の20余藩で専売制になっている。そして周防・長門の宋支藩はこの紙専売制を請紙制といい、その地域の石高に応じて米の代わりに納める紙を割り当て、その割当量を請け負って必ず上納する義務を負わせる制度で、萩藩は寛永8年(1631)、岩国藩は寛永17年(1640)、徳山藩は明暦元年(1655)に請紙制を実施している。
 また隣接する石見の津和野藩は寛文5年(1665)、安芸の広島藩は宝永3年(1706)に紙専売制をしいており、西中国地方は江戸前期に日本最大の紙産地に成長した。
(中略)

 しかし、このきびしすぎる専売制に紙漉き農民は抵抗してしばしば紙一揆を暴発させ、青木虹二『百姓一揆の年次的研究』によると、江戸時代の紙一揆60件のうち29件は周防・長門で発生している。紙一揆は当然生産量を減少させるが、江戸末期には四国地方の伊予・土佐が紙市場で優位を占めるようになる。文政10年刊の『経済要録』には、「世に多く有用なるは半紙より要なるは無し。・・・今の世に当って伊予の大洲半紙、厚くして幅もゆたか也。故に大洲半紙の勢い天下に独歩す」と記している。伊予や土佐は農民の抵抗で紙専売制の中断、復活を繰り返したところで、農民に平紙の自由販売権も認めて生産意欲をかきたてている。

 天保15年(1844)刊の大蔵永常『広益国産考』には「大坂の紙問屋へ承るに当時諸国にて漉出す紙の内に、土州より出る紙四分にて、余は国々より出づる紙六分なるよし」とあり、平尾道雄『土佐藩工業経済史』によると、弘化の頃(1844~1847)の土佐紙の年産額は約12万丸で、このうち蔵紙は2.7%の約3200丸にすぎなかったといい、平紙出荷量が増大していたことを語っている。



<町人社会の需要にこたえた半紙>p178~179より
 近世初期の町人たちは、杉原紙を半分に切って使っていたが、やがてその小さい判型の製品が市場に出回るようになった。生保2年(1645)刊の松江維舟『毛吹草』には周防産として山代半紙が記されている。周防の山代地方は萩藩領で、萩藩は最も早く寛永8年(1631)に紙の専売制をしいており、ついで岩国藩が寛永17年(1640)に専売制としているが、半紙は防長宋支藩の最重点製品であった。永宝7年(1677)刊の『難波すずめ』には、大坂の紙問屋の大半は周防・長門・石見・安芸など西中国地方の紙の特約問屋であることを記している。
(中略)
 これらの産地に、安永6年(1777)版の『新撰紙鑑』では、淡路・土佐・伊予・備中・豊前・豊後・肥前などが加わっている。約20ヶ国の半紙が上方市場に流通したわけであるが、武蔵には山半紙、駿河にはミツマタ製の駿河半紙があるなど、全国ほとんどの紙郷で漉かれていた。大坂市場では江戸末期に、半紙出荷量の多い周防・石見・安芸・土佐・伊予・阿波・肥前・豊後諸藩の蔵屋敷にちなんで「八蔵半紙」と呼んでいた。

 ところで、半紙はむしろ下等な資質で、量産体制をととのえるために新しい紙工が数多く動員されたが、石見浜田藩の国東治兵衛はその技法テキストとして寛永10年(1798)に『紙漉重宝記』を刊行している。名所図絵などの挿絵作家として知られた丹羽桃渓が工程を図解し、かな書きでわかりやすく説明している。



<海外で高く評価された和紙>p210~211より
 紙史研究の国際的権威として定評のあるアメリカ合衆国のハンターは1933年に来航して岐阜・福井・高知・愛媛県などの主要紙郷を巡歴し、さらに韓国・中国を旅行したあと、1936年に『日本・韓国・中国への製紙行脚』を出版、和紙を世界最高級のすばらしい紙と絶賛した。
 「日本人はもともと非常にすぐれた手工業の技能をもっており、そしてコウゾ、ミツマタ、ガンピの樹皮を原料として用いているので、今日の手漉き和紙は、すべての製紙工業のなかで驚嘆に値するすばらしい工芸といっても誇張ではない」
 また1934年に来航したイギリスの紙史研究家のクラパートンはその著『近代の製紙』のなかで「日本人は手すき紙つくりの最も巧妙な工人であり、彼らは最も美しい紙をつくっているといってよい」と評している。

 このように彼らが最高級のすばらしい紙質と評するのは、記録印刷の素材としてではない。かつてオイレンブルクの随行者が「紙の用途がこの国より広いところはどこにもないであろう」と記したように、用途が広いからで、ハンターは「西洋の旅人は、日本人がほとんど無限ともいえる用途に紙を使っていることに驚くばかりであり、見たところもろい素材である紙を、きわめてうまく活用しているその精妙さは、中国や韓国の技巧よりはるかに優れている」としている。そしてハンターはまた、「日本人が長い期間、何度も使えるほどの誠実な紙をつくることができるのは、すぐれた独特の製紙原料を用いるだけでなく、誠実で有能な製紙技術をもっているからである」といっている。

 ラインは和紙の強さを、粘り強い靭皮繊維の長く伸びた状態のままで漉くため、と原料にその要因があるとしているが、ハンターはさらに有能な製紙技術を強調している。それはとくに流し漉きの技術のことで、流し漉きの特徴を、「流し漉きは代表的な日本の紙に用いられ、そして日本の紙が他の全ての製紙工のものよりすぐれ強いうえに薄くて優美な紙をつくるには、最も適した方法である」「薄物のティシュペーパーや非常に薄いコウゾ紙をつくるのに、とくに適している」と述べている。きわめて薄くてもねばり強いのは、和紙の顕著な特徴であるが、それは流し漉きの技術にささえられているとしているのは、世界の紙郷を巡歴したハンターらしい鋭い考察である。


海外から、これだけ高く賞賛された和紙なんですが・・・・
工業化社会に突入した日本で、洋紙におされて衰退した和紙のお話です。

<明治末期から衰退の一途>p228~230より
 和紙は記録印刷用の書写材としてのほか生活用品の加工素材でもあるので、明治維新以後は生活物資の消費増大にともなって需要がふえ、小学校教科書用紙でもあったため生産額はふえつづけ、製紙家も多くなっていた。農商務統計によると、明治27年の製紙戸数は6万2685戸、明治34年は6万8562戸となっている。しかし、これを頂点として製紙戸数は減少し、明治40年は5万9300戸、大正10年は4万196戸となっている。

 この衰退の最大要因は諸官庁や商社が毛筆を廃してペン書きに改め、高速印刷機が用いられるようになったことであるが、手漉き和紙だった小学校教科書用紙も明治36年には文部省告示で洋紙に切り替えられ、明治43年の日本紙業大会で、すでに「和紙業の危機」が叫ばれていた。

 「和紙業の危機」を感じはじめた1910年の製紙戸数は5万4917戸であるが、その15年後の大正14年(1925)には3万160戸となり、最盛期から4半世紀で半数以下に減っている。しかもこの年度の和紙生産統計は『帝国統計年鑑』に収録されている最後の数字で、昭和期には消えている。衰退する手漉き和紙はひとつの産業統計として取り上げるに値しないとされたのであるが、昭和3年に農林省農務局が「手漉製紙ニ関スル調査」をまとめている。この調査によると、全国の製紙戸数は2万4121戸、従業員10万1793人で、製紙戸数は岐阜県が最も多く、次いで高知県1862戸、福岡県1572戸となっている。

(中略)
 昭和12年日中戦争が始まり、原材料は配給制となり、つくる紙は軍需用を強制された。そして日本手漉紙工業組合聯合会が調査した昭和16年の和紙業者は1万3577戸となっている。
 昭和20年太平洋戦争が終わるとともに、統制から解放されて活況がよみがえったが、大規模な製紙工場の機械設備が復旧するとともに和紙業界の好況は過ぎ去った。昭和30年から約10年間は近代産業の高度成長期といわれ、日本の洋紙生産高はアメリカ、カナダに次いで第3位となったが、手漉き和紙業界は逆に高度衰退を経験しなければならなかった。これには高知県の高岡丑研究所が開発した懸垂式短網抄紙機の影響も大きい。

 これは手漉きによく似た紙を機械漉きすることができ、高度な流し漉き技術を必用とした極薄の典具貼紙もつくれたので「典具革命」とも言われた。そしてそれまで手漉き和紙の主要な部分を占めた障子紙が機械漉きされるようになって、粗悪な粕障子紙をつくっていた辺地の副業製紙家を廃業させた。手漉きの温床紙は機械漉きからさらにビニール製に移って消滅し、戦後の高知・岐阜県の業者をうるおしていた謄写版原紙も機械漉きがふえ、やがて電子複写機が出現して命脈を断たれた。

 その高度衰退の状況を統計によってみると、昭和34年に1万戸を割って9077戸、昭和37年に3869戸となっている。これらは伝統工芸の急激な衰退を憂えた文化庁文化財保護部が独自に調査した数字である。絶頂期の5.6%に減退した現実に直面して、全国手漉和紙振興協議会が結成され、翌年松江で第一回大会を開いた時の和紙業者数は、さらに約1000戸減って2868戸となっていた。この協議会は昭和44年に全国手漉和紙連合会と改称されて現在に至っているが、その後の推移をたどると、昭和48年には884戸、昭和57年586戸、平成9年362戸、平成16年317戸となっている。衰退の一途をたどっているが、1997年の専業率は76.5%となっており、特に四国地域の専業率は93.3%である。量より質を重視してその仕事に打ち込まなければ生き残れなくなっている。


このところ和紙は伝統工芸品として見直されて、やや興隆の兆しが見られるが嬉しいですね。



<和紙と暮らす>
図書館で「和紙と暮らす」という本を借りたが・・・
この本から故郷土佐の楮・三椏栽培のあたりを紹介します。

大使が和紙に描くイメージは、森林に寄り添う産業という感じで、何と言うかエコロジーそのものなんですよ。(過酷な作業が見えないところが、極楽トンボなんですが)


<楮・三椏栽培>p37~39
甑

 高知県の山あいの農家では、昭和30年ごろまで、県内では最高品質の赤楮(あかそ)と呼ばれる楮が生産されていた。現在はユズやお茶などの栽培に変わり、楮の姿を見かけることは少ない。それでも今なお、雪の残る山道で、畑で刈り取った重い楮の束を担いで釜床まで運ぶ姿を目にする。
 楮は鎌で一本一本刈り取られる。枝を払い、4尺2寸(125センチ)の長さにきっちり揃える。蒸し器である甑の寸法に合わせたサイズだ。それを40本から60本くらい束ね、しっかり縛り、釜場まで運ぶ。釜場のある農家の庭先や山の斜面などでは、甑の径に合わせてさらに大きな束になった楮が、ごろんと横たわる。
 いよいよ楮を蒸す段になると、村の集落は朝から活気づく。一家総出あるいは、昔から「結い」を結成している里では、近所の皆が手伝いに集まる。早朝3時頃より釜を焚いて、甑で楮を一度蒸すのに3時間は燃やし続ける。厳冬の甑上げでは、もうもうと上がる真っ白な蒸気は、向こうの山も周囲の物も甑自体をも包み消してしまう。
 蒸しあがった束には総出で水をかける。水をかけ急激に冷やすことで、楮が収縮し、皮が剥ぎやすくなるという。

 三椏は沈丁花科の落葉木で、苗を植えてから成木になり、刈り取るまでに3年かかる。3年ごとに収穫された三椏は、大蔵省印刷局に納入され日本銀行券となって日本全国に出回る。子どもの頃、楮は和紙に、三椏はお札になると親から教えられたものである。


次に楮や三椏の生産者について、ネットで探してみました。

楮農家の紹介より
楮

土佐和紙の原点は、楮。
楮には、様々な種類があるが、農家さんたちは、ひっくるめて「梶」と呼んでいます。
楮は、山間に建つ野村家の裏山や、清らかな清流を挟んだ向かい側の斜面で育てられています。日当たり抜群です。

 楮原料の多くはタイなどからの輸入品に置き換わって、楮畑や甑上げなどが少なくなったそうだが、その生々しい実態までは知りません。

 和紙は耐久性に優れる。繊維が長いため、しなやかで丈夫。高知県産の極薄和紙が、欧米の書籍修復に重宝されているそうです。透けるような紙なので、上から貼っても文字や絵がみえる。日本の刷毛とのりと和紙は修復家の羨望の的だとか。

「かみこや」というサイトを知ったけど、オランダ人が三椏、和紙の生産に着目したことに・・・・逆に惹かれるわけです。
和紙を作ること自体が、心和む普遍性を持っているんではないでしょうか。


かみこやより
三椏栽培

四国カルストの風を受け、四万十川源流の水で暮らす。標高650Mの高台で99%緑に包まれた「かみこや」オーナーはオランダ人和紙作家で土佐の匠でもあるロギール・アウテンボーガルト。和紙の原料から育て、昔ながらの紙を漉き、作った和紙の優しさを製品にしています。
かみこやではロギールの手ほどきで紙漉き体験もできます。灯り・障子・襖に壁紙と和紙に囲まれた民宿のゲストルームは、1日1組~2組。暖かいおもてなしを心がけています。


先日(4月4日)京都府立植物園で見た三椏です。
ミツマタの花は黄色と白のツートンカラーだったんですね♪
ミツマタ


【和紙と暮らす(別冊太陽)】
和紙

増田勝彦著、平凡社 、2004年刊

<「BOOK」データベースより>
データが見つからず。

<大使寸評>
昭和30年代までは、故郷のわが町でも楮の蒸し上げ作業を行っていて、幼い大使もかすかに覚えているのです。
それだけ和紙作りが身近にあったわけで、里山では楮、三椏の循環生産を行っていたんでしょうね。
和紙と森林の関わりが気になって、この本を借りたのです。

rakuten和紙と暮らす(別冊太陽)




<画期的な書写材>
シルクロードの交易品といえば、絹、磁器、紙が知られるが・・・
西洋文化、日本文化を育んだ紙は、文化の揺籃ともいえる重要な因子なんでしょう。

まさに、紙は画期的な書写材であるが「シルクロード:pen#352」から、そのあたりを紹介します。

<紙 PAPER>p82より
 紙とは、植物の繊維をほぐして水に分散させたものを漉き上げ、乾かすことによってつくられたもの。記録上は、後漢王朝時代の中国で105年に蔡倫が発明したものとされていたが、中国各地で紀元前2世紀の前漢時代の遺跡から紙が出土しちることから、その頃にはすでに紙が生産されていたことがわかっている。

<中央アジアの戦いを機に、西方へ伝播した製紙技術>
 人類は文字を持った時から、石、土板、樹皮や竹、動物の皮、布など、さまざまなものにそれを記してきた。
 紙のルーツとして「Paper」の語源となった古代エジプトのパピルスを思い浮かべる人がいるかもしれないが、パピルスは草の茎の芯を薄く剥ぎ、それを縦横に重ねてシート状に圧着したもので、紙とは異なるものだ。
 そうしたほかの書写材料に比べて、紙は軽くて運搬しやすく、折り曲げても割れることがないという大きなメリットがあった。そのため紙はシルクロードを通じて西方へ伝わり、中央アジアや西アジアのソグド人、ペルシャ人などにも使用されるようになった。絹や磁器と並び、紙もまた重要な中国の輸出品だったのだ。

 それだけに、紙の製法は長年外国には伝えられなかった。日本に製紙技術が伝来したのは6世紀後期から7世紀初頭にかけてで、その後は和紙として独自の発展をとげた。一方、西方へは751年に起こったタラス川の戦いを契機に製紙技術が伝播していった。

 タラス川の戦いは、唐王朝の中国とアッバース朝のイスラム帝国が、中央アジアの覇権をかけて激突したもの。戦闘はイスラム帝国軍の勝利に終わったが、この際に捕らえられた唐軍の捕虜の中に製紙職人がいた。戦後、イスラム帝国はサマルカンドに製紙工場をつくり、紙の生産を行った。この紙は「サマルカンド紙」と呼ばれ、この地の重要な産業となり、紙は聖典コーランなどを書写する材料として広くイスラム世界に広まっていったのだ。

 製紙技術は12~14世紀にかけて、徐々にヨーロッパ諸国にも伝わっていった。ドイツ人のグーテンベルグが、やはり中国起源の印刷技術をもとに独自の活版印刷機を発明すると、羊皮より安価で大量生産できる紙によって、多くの聖書が印刷されるようになった。それが16世紀のルターなどによる宗教改革にもつながっていく。

 そして、時を経た現代も、紙は言うまでもなく日常に欠かせない存在である。後の社会や生活に与えた影響の大きさを考えれば、紙はシルクロード史上最も重要な品だったと言えるかも知れない。



【シルクロード:pen#352】
pen
雑誌、阪急コミュニケーションズ、2014年刊

<内容紹介より>
今回Penは、古く交易が盛んであった新疆ウイグルを訪ねた。
街には、現代のウイグル族の暮らしが土地の歴史に重なり、
砂漠には、玄奘が記した古の国の跡が大地に残る。
異文化が流入し、民族が出合った軌跡に花開いた文化は、
シルクロードが育んだ人類の営み、その豊かさの証しだ。
ユーラシア大陸の広域にわたった創造の道を、いま解き明かす。

<大使寸評>
充実した内容のわりに値段がリーズナブルなので、買ってしまった♪

penシルクロード:pen#352




<文字の文化史>
初期の文字は粘土、木片、骨片、皮、布に書かれて最終的には紙に書かれた。
図書館で借りた「文字の文化史」であるが・・・・
この本の書評を、どのジャンルに入れるか迷ったわけである。
歴史か、言語学か、森林か?・・・結果、森林に入れたのは紙への拘りが強い大使ならではなんでしょう。
だって現代では、紙の材料は圧倒的に木質系ではないか。
…このあたりが、森林にこだわる大使ワールドなんだろう♪


【文字の文化史】
文字

藤枝晃著、岩波書店、1991年刊

<「BOOK」データベース>より
3500年前に溯る甲骨文・金石文。漢字の誕生は神をまつり、神託をきく儀式と深くかかわっていた。聖なる文字はどのような歴史を経て万人のものとなったのか。写本の素材や形態の変遷、木版・活版印刷の登場に伴う字体の変化を興味深く語る。図版102枚。

<読む前の大使寸評>
漢字、翻訳、通訳、印刷、書籍・・・大陸文化とのつきあいに欠かせないこれらのアイテムが興味深いわけです。

rakuten文字の文化史


紙、印刷に注目して、関係するあたりを紹介します。
紙の遺品が最初に西域の砂漠から発見されたことが…
西域フェチの大使にとって興味をひくわけです。

<紙の出現>よりp133~138
楼蘭

(文字数制限により省略、全文はここ





<土佐紙>
 厚さ0.03mmの世界で最も薄い紙である「土佐典具帖紙」は、オンリーワンの修復紙として海外に輸出されているそうです。
(文字数制限により省略、全文はここ


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