福岡ハカセの本棚

<福岡ハカセの本棚>
図書館でこの本を手にしたが・・・
表紙に書かれたコピー「思索する力を高め、美しい世界、精緻な言葉と出会える選りすぐりの100冊」が、ええでぇ♪

さて、ハカセお勧めの100冊とは、どんなかな?


【福岡ハカセの本棚】
福岡

福岡伸一著、メディアファクトリー 、2012年刊

<「BOOK」データベース>より
科学的思考と巧緻な文章力の原点。科学者・福岡伸一を生んだきわめつけの良書を熱く語る。
【目次】
第1章 自分の地図をつくるーマップラバーの誕生/第2章 世界をグリッドでとらえる/第3章 生き物としての建築/第4章 「進化」のものがたり/第5章 科学者たちの冒険/第6章 「物語」の構造を楽しむ/第7章 生命をとらえ直す/第8章 地図を捨てるーマップヘイターへの転身

<読む前の大使寸評>
表紙に書かれたコピー「思索する力を高め、美しい世界、精緻な言葉と出会える選りすぐりの100冊」が、ええでぇ♪

さて、ハカセお勧めの100冊とは、どんなかな?
ハカセは科学者として、理系のエッセイストとして、これほど文章の上手い人はいないとも言われているようです。

rakuten福岡ハカセの本棚


ハカセが説く村上春樹の魅力あたりを見てみましょう。

<「物語」の構造を楽しむ>p180~182
 しばしばいわれるように、村上春樹の小説の基本構造はシーク・アンド・ファインドです。主人公が何かを探し求めて旅に出る。そして、それを見つけ出したり、持ち帰ったりする。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』もまさにそうした物語です。壁に囲まれた町の図書館で、「夢読み」をして暮らす「僕」。暗号を取り払う「計算士」として働きながら、自分の意識に仕掛けられた謎を解こうとする「私」。二つの物語が交互に入れ替わりながら、最後には一つの大きな物語に収束します。そこに至る構成もみごとです。
 ところで、村上作品を象徴するファクターに、「僕」という一人称があります。その印象があまりに強いため、「僕」で語ると、どんな物語も村上春樹風に聞こえてしまうと感じるのは私だけでしょうか。ちなみに、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を英訳するとき、翻訳者のバーンバウムは、「僕」と「私」をどう訳すかで悩んだそうです。
 英語には「Ⅰ」しかない。結局、「僕」の物語を現在形で、「私」の物語を過去形で表すことにして、賞賛を浴びました。

 村上春樹の小説はとても読みやすく、描写もクリアです。しかし、それぞれの事象に込められた意味はしばしば宙吊りにされ、最後まで明かされません。注意深く組み立てられた構造の中で、謎が謎のまま放置される。それが読者の深読みを誘い、たくさんの研究書が著わされるところは、フェルメールの絵にも通じます。

 『1Q84』に登場する「リトル・ピープル」も、そうした謎の一つです。冒頭から物語の強い流れに引きこまれた読者は、「リトル・ピープル」に出合って当惑します。夜ごと山羊の口から出てきて、「空気さなぎ」をつくるこびとたち。実体があるのかないのかもわからず、善悪もわからない。しかし、「着実に我々の足元を掘り崩していく」存在。

 私たちの内部にあるという点で、「リトル・ピープル」は、ジョージ・オーウェルの『1984』における外的な支配者「ビッグ・ブラザー」とも異なります。彼らは「山羊だろうが、鯨だろうが、えんどう豆だろうが。それが通路でさえあれば」姿を現し、私たちを徹底的に利用し、利用価値がなくなればたやすく乗り捨てていくというのです。

 えんどう豆。生物学者がこの言葉を聞いて思い出すのは、えんどう豆の実験によって導き出されたメンデルの法則です。だとすれば、ここで暗示されるのは、利己的な意志をもつかのように擬人化された遺伝子ではないだろうか。遺伝子の究極の目的は、永続する自己複製です。「空気さなぎ」はそのメタファーに思えます。

 現代人の多くは、生まれながらにもっている遺伝子に、自分の運命を支配されているように感じています。しかし、それは私たちが、遺伝子が利己的な支配者であることを信じ、そこに身を委ねようとするからです。その誘惑に対抗するには、一つひとつの人生を自分の物語として語り直すしかない。それでこそ、私たちはより自由に、ときに利他的に行動できる。私はこの作品をそのように読みました。


ウーム 「人生を自分の物語として語り直す」てか・・・・奥が深いですね。

しかし、村上春樹作品の批評にメンデルの法則や遺伝子が出てくるところが福岡ハカセのハカセたるところなんでしょうね。・・・座布団3枚。

この記事も福岡ハカセの世界に収めておきます。

日本人作家をもう一人・・・
ハカセがカズオ・イシグロを語っています。

<地図を捨てる>p204~206
 イシグロは1954年に長崎で生まれ、父の仕事の関係で5歳のときにイギリスへ渡りました。数年の予定と思われていた滞在はついに終わらず、大学を出て社会福祉事業に従事した後は、イギリスで作家を目指します。彼はそのあいだ、日本へのノスタルジーを封印していたといいます。しかし一方、少年期を過ごした長崎の記憶は、ある鮮やかさをもって心に刻まれていた。20代も後半になった頃、イシグロは日本についての記憶がやがて薄れて消えていくことを思い、この小説(『遠い山なみの光』)を書いたのです。

 私はその後も、カズオ・イシグロの小説に親しんでいきました。『わたしを離さないで』は、この作家の作品の中で最も知られるものの一つです。
 実はこの長篇を読んだのは、新聞の書評欄に「『複製』の概念が『命』の本質を押しつぶそうとする戦慄の小説」と紹介されていたからでした。確かに物語の背景には、生命操作の問題があります。主人公のキャシー・Hをはじめ、ヘールシャムという寄宿舎で一見何不自由なく育てられている少年少女たちは、最新のクローン技術によって生み出され、臓器提供のドナーとなる運命を背負っているのです。

 しかし、この作品が意図するのは、彼らの不幸を鏡として近代科学を批判することではありません。他のイシグロの小説がそうであるように、ここで扱われるのは記憶の問題です。『遠い山なみの光』の悦子と同じように、主人公のキャシーはたびたび過去へさかのぼり、ヘールシャムでの何気ない日常を反芻します。それを支えとして、日々を生きようとするのです。

 私たちの体を構成する分子は絶え間なく入れ替わっています。私たちの自己同一性を担保するものは、少なくとも物質レベルでは何一つありません。では、何がアイデンティティとして私たちを支え、私を私たらしめるのか。それが記憶だとはいえないでしょうか。
 もちろん、記憶も時間とともに変化します。私たちの体が最終的にエントロピー増大の法則に屈し、崩壊せざるを得ないように、記憶もまた儚いものです。そのつど更新され、変容していきます。けれど、人が亡くなったとき、その人の記憶はちりぢりになって別の人々の記憶のなかに宿り、時を超えて生き続けていくことができる。その点において、クローンであるキャシーと私たちの人生になんら違いはありません。

 記憶も、過去と現在、人と人、人と場所や物のあいだに生じる関係性です。その不確かさにもかかわらず、ときに何にも増してそれが人を支えるということを、イシグロは巧みに物語にしてみせるのです。


なるほど、『わたしを離さないで』のメインテーマは複製ではなくて記憶なのか・・・
ハカセの読みはなかなかのもんでんな♪

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