魂の流れゆく果て

<魂の流れゆく果て>
図書館で『魂の流れゆく果て』という本を手にしたが・・・
猪飼野あたりの写真も多く、大使の土地勘もはたらいて興味深いのです。

在日、猪飼野、大阪造兵廠、アパッチ族・・・大使は、この歴史から目が離せないわけです。

【魂の流れゆく果て】
梁

梁石日、光文社、2001年刊

<「BOOK」データベース>より
莫大な借金を抱えて大阪を出奔。放浪の末に東京でタクシードライバーに…。人生の辛酸をなめつくした末たどり着いた運命の法則は?待望のフォト&エッセイ。

<読む前の大使寸評>
在日、猪飼野、大阪造兵廠、アパッチ族・・・大使は、この歴史から目が離せないわけです。

rakuten魂の流れゆく果て


梁石日の作品では『血と骨』が圧巻であるが、その深層が語られています。

<父を描く>よりp121~130
 私は3年前に『血と骨』(幻冬舎刊)という小説を出版した。この小説は以前、講談社から出版した『修羅を生きる―恨を乗り越えて』という半自伝的な本の中で多少ふれている父と家族との関係をとおして一人の業深き人間の生きざまを徹底的に描いたものである。

 むろん小説だから事実とフィクションがないまぜになっているが、根幹のところは事実にそくしている。小説を書くようになってから、私は二度、父についての小説を書こうと試みたが、二度とも失敗して途中で投げ出してしまった。

 どうしてもその時点の筆力では父を描ききることはでっきなかったのである。いまひとつは父を憎んでいた私の深層心理から解き放たれないまま書こうとしたことが逆に私を自縛してペンを進めることができなかったのだ。

 さらに想像力の問題がある。父を位置づける時代背景と在日朝鮮人の生きられる身体とをどのように普遍的な次元にまで昇華させられるのか、といった文学の本質について私は十分に対応できなかった。いわば私は父に対する憎しみに鼓舞されて書こうとしたのだった。
 だが、憎しみはエネルギーになりえても、結局のところ新しい地平へ踏み出すおのれの再生につながらなかったのだ。私自身の再生なくして父を描くことはできなかったのである。

 そのために私は長い試験の時を費やさねばならなかった。そこへ行き着くために、私は自らの人生をいま一度模索し、文学の闇の奥底まで行き、ふたたび光を求めて浮上してくる道程を避けて通ることはできなかったのだ。描けると思っていた父は途方もなく巨大な存在であった。それは父という人間の存在が巨大であったという意味ではなく、私がかかえ込んでしまったもろもろの実存が、父に投影されている人間の底しれぬ業の深さが私には見えなかったのである。

 父の存在の背後にあるもの、父の向こう側から、いわば死の世界からこちら側を見つめている死者の眼に、私はたじろいだのだ。
 そこには母がおり、姉と妹と弟がおり、腹ちがいの兄妹と従兄弟、そして無数の在日同胞と日本人と、戦争、解放、南北の分断、さらには私の妻と子供とそれらをとりまく日本的状況の中で、憎んでいた父が私の闇に厳然と立ちはだかっていた。

 死者ほど死んでいるものはない。だが、死者ほど実存を生きつづけるものもないのである。小説を書くことは一方で死者を語らしめることにほかならない。

 『血と骨』を書きながら、私は過去へ過去へさかあのぼっていった。私の記憶は激しい逆流にあえぎながら、たどり着いた1930年代という年代から現在に舟を漕ぎだした。
(中略)

 母が亡くなったとき、仕事をしていたこともあって私は死水を取れなかった。近くに住んでいた姉が偶然訪れ、母の死水を取ったのである。知らせを聞いて帰ってみると、息を引き取った母の口に姉がスプーンで水をあげていた。痩せ衰えて皺だらけだった母の顔が少しむくんだようになっていて皺がなくなり、つやつやしていた。私は泣いた。一人机にうつ伏せて泣き続けた。こみあげてくる感情は悲しみより、悔恨、悔恨、また悔恨であった。私を溺愛し、私のためだけに生きてきたといっても過言ではない母に何一つできなかった悔恨であった。

 そして母が亡くなって1年後に姉が首を吊って自殺した。28歳だった。このときも私は短い生涯の中で一日として幸せな日を送ることのできなかった幸薄い姉のために泣いた。自分の無力を思いしらされt。しかし、死は一つの通過儀礼でしかなかった。過ぎ去ってしまえば私は元の私にもどっていた。らん惰で、いい加減で、エゴイストの私である。

 その私がなぜ『血と骨』を書いたのか。『血と骨』を読んだ友人の女流陶芸家はつぎのような手紙をくれた。
 「梁さんは、この本を書くために文学してきたんや、と思います。(中略)父上が貴兄に文学を与えてくれたのだと思います」


かつてのアパッチ族だった梁さんが、アパッチ族の発生と消滅の経緯を語っています。

<大阪城公園:大阪曼荼羅02>
 写真は京橋駅と森ノ宮駅の間にある大阪城公園である。手前には日航ホテルをはじめ各企業のビルが聳えている。だが、大阪城公園やビルが林立している一帯は、かつてのアジア最大の兵器製造工場跡地なのである。

 日本が連合軍に無条件降伏したのは1945年8月15日だが、その前日に、この造兵廠は1千機のB29とグラマン戦闘機の猛爆を受けて壊滅したのだった。

 その後、第二寝屋川(旧猫間川)周辺に在日朝鮮人がバラック小屋を建てて住みつき、1958年2月頃から造兵廠跡に入り込んで瓦解した鉄塊を盗んで生活の糧にしていた。そしていつしか鉄塊を盗む在日朝鮮人は「アパッチ族」と呼ばれるようになった。私もじつは、このアパッチ族の一人として徒党を組み、夜な夜な造兵廠跡に忍び込んで鉄塊を盗んでいた。

 しかし、この造兵廠跡の鉄塊は国有財産であり、したがって警察の厳しい監視の中で鉄塊の盗掘は続けられ、ついにアパッチ族と警官隊の大規模な衝突が起こったのである。夜空に照明弾が打ち上げられ、逃げまどうアパッチ族と警官隊との凄まじい戦いが連日連夜つづき、その年の10月にアパッチ族は壊滅した。

 あれから40数年が経ち、瓦壊したかつての兵器工場跡は埋めたてられ整備されて美しい公園になったが、いままた新たな現象が起きている。いわゆるホームレスたちが公園内に数百のテントを設営して暮らしているのだ。それらのテントを撤去しようとするとき、第二のアパッチ族と警官隊の衝突は避けられないだろう。


『血と骨』という2004年の映画を3年前にDVDで見ていたので、再掲します。

【血と骨】
血と骨
崔洋一監督、 2004年制作、H24.4.24観賞

<大使寸評>
タケシならではの凶暴な父親役が圧巻であり、これほど欲望のおもむくままの人生もあったのかという感じですね。
怒りにまかせて家を壊すような、破壊力がすごーい♪
また、チョイ役ではあったが、若き日の(今でも若いが)オダギリジョーが息子役を好演しています。

goo映画血と骨
CinemaTopics血と骨


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