日本の文脈

<日本の文脈>
図書館に借出し予約していた『日本の文脈』を、1週間後にゲットしたのです。
(早期ゲットには、3年前の刊行など古い本が狙い目のようです♪)

内田先生と中沢新一との対談ということで、知的にそそられるわけです。
このお二人なら、どうしても攘夷、つまり、一見右翼的な言動になるんでしょうね♪

華夷秩序や「中体西用論」など、中華についても、いいたい放題で語られていて・・・ええでぇ。


【日本の文脈】
内田

内田樹× 中沢新一著、角川書店、2012年刊

<「BOOK」データベース>より
『日本辺境論』の内田樹と、『日本の大転換』の中沢新一。野生の思想家がタッグを組み、いま、この国に必要なことを語り合った渾身の対談集。

<読む前の大使寸評>
内田先生と中沢新一との対談ということで、知的にそそられるわけです。
このお二人なら、どうしても攘夷、つまり、一見右翼的な言動になるんでしょうね♪

<図書館予約:(6/09予約、6/16受取)>

rakuten日本の文脈


大使の関心といえば、まず華夷秩序への反発が来るわけで、そのあたりを見てみましょう。

<トリックスターとしての国民>よりp90~94
内田:日本って、中華から見れば東夷、東のどんづまりにいるわけであって、外来の文明素材は一粒たりとも逃がさず全部取り入れて、それを咀嚼するしかなかった。丸山真男が『日本文化のかくれた形』(岩波現代文庫)で言っていたことですけれど、日本人の基本的な態度というのは「きょろきょろする」ことなんだそうです。外側に自分のところよりも上位の文化があって、「善きもの」はつねに外部からやってくる。日本の思想史を通覧してみても、そこに一貫して存在する「コンテンツ」はない。しかし、一貫して存在する「モード」はある。それは、外来のものにほとんど無批判に飛びついて、それを呑み込んでゆくという文明受容の態度ですね。そのつど、次々と支配的な思想は変化するけれど、変化する仕方は変化しない。

 外からやってくるものは、良否を吟味することなしに、どんどん取り込んでいく。でも、それが咀嚼され、消化されて、自分の中にしっかり定着して、日本文化の堅牢な土台や骨組みになるかというと、ならない。
 次の外来のものが来ると、それまでのものを「もう古い」と言って捨て去り、最新流行のものに飛びつく。でも、古いものを「古い」というだけで捨てて新しいものに飛びついた自分の過去の行動を正当化するためには、次に新しいものが来たときには、逡巡せずにいま持っているものを「こんなのは、もう古いもの」と言って捨てなければならない。そうしないと、話のつじつまが合わない。

 だから、外来のものを取り込めば取り込むほど、渇望はいや増し、変化しなければならないという強迫はつのってゆく。丸山真男はそういう日本の変化への渇望のことを「きょろきょろ」という擬態語でみごとに示したと思います。

 でも、こういう日本人の、外来のものに対して焼けつくような欲望を抱く傾向そのものを否定的にとらえる必要はないんじゃないかって僕は思うんです。二千年前からずっとこうやってきて、それでそこそこ気分よく暮らしているわけですから。

 近代に入ってから、いくつか対外戦争をしたけれど、この65年ほどは、戦争もしていないし、国境線は侵犯されていないし、通貨も民生も安定しているし、自然もきれいだし・・・・結構いい線行っていると思うんです。

 自分たちはローカルな後進国で、劣っていて、外側のどこかにすばらしい上位文化があって、それに追いつかなくちゃいけないって「きょろきょろしている」というあり方が日本人的であるというのなら、それはそれでいいじゃないか、と。そういうのが僕の考えなんです。「それが日本人なんだよ」っていう国民的合意を形成して、正確な自己認識をした上で生きていけばいいんじゃないの、というのが僕からのご提案なわけです。

 その上で、そういう国民文化において、汎用性の高い言語とはどういうものだろうかということを考えてみると、学術的な言語としての外来の「真名」と、土着の「仮名」のハイブリッド言語なのではないかと思うんです。

 外来のものと、土着のもの、その両方に足をかけて、ゆらゆらバランスをとっているような言語。そういう言語が日本語の歴史の中で、いちばん長持ちのする、日本人の身体にいちばん深くしみ通る言葉じゃないかと思うんです。そのハイブリッド性のうちにこそ、日本人の「魂」のようなものがあるのではないか、と。 
(中略)

 アカデミックな世界にも片足を突っ込んでいるけれど、アカデミックな言葉だけで文章を書くのは厭だ。でも、生活者でございと居直って、頭も尻尾もないような、情念的なだけの言葉も嫌いである。スカッと論理の筋目を通したいけど、人間の弱さや傷つきやすさを勘定に入れない原理主義は大嫌い。そういうややこしいことを願っているわけです。原理と生活実感の二極のあいだで、きょろきょろ、ふらふらしている自分がいるんです。60歳になんなんとして、ようやくそれがわかってきた。「これが日本人の生きる道」だ、と。


中華に対するメンツはさておいて、ローカルな文化で結構、集団的自衛権などもってのほかの内田先生である。
大使はややいらつくわけだけど、貴重なご提案だと思うわけです。

中韓が思想的な拠りどころとする「中体西用論」が、お二人でけちょんけちょんに語られています。

<いくら入れても壊れない器>よりp139~140
内田:日本の辺境性の一つに、外来の制度や文物を、とにかく一回全部取り入れるということがあります。「これは取る、これは取らない」と選り分けずに、とりあえず全部入れてしまう。そこで、外からどんどん取り入れたときに、自分の中身がぎっしり詰まっていると、構造が壊れてしまうので、外から取り入れても民族的な本体が損なわれないようにするためには、どうしたらいいんだろうって考えた。その結論が、自分をスカスカなものにしておくことで、その最良の例は、明治維新後の近代化ですね。

 日本と中国と朝鮮の三つを比べるとわかりやすいけれど、中国人は「中体西用論」で、「すべての文明は中国が起源である」という考え方をする。いまはたまたまヨーロッパやアメリカが進んだ技術を持っているけれども、もとをただせば、みんなうちがオリジンなのである、と。火薬も羅針盤も紙も。

中沢:北京オリンピックでも、うちがオリジンだってアピールしてましたね。

内田:西洋風にアレンジされたものを使うけど、もともとはうちのだし、われわれの本体はまったく変わらない、というのが中体西用論。しかし、この思想は、19世紀の終わりに帝国主義国家が侵略してきたときに効果的な対抗をすることを致命的に妨げた。

 すべての起源は中国にあるということになると、国外に中国人の知らない新しい概念や構想が存在するということはあってはならない。それを認めると知的な華夷秩序の全体が崩れてしまう。中国オリジン説になじまないものはシステマティックに排除される。

 それは「小中華」である朝鮮も同じですね。そのとき、日本は、外来の制度文物を入れては適当にアレンジしてローカライズするということを1500年以上もやってきていたので、平気でどんどん入れちゃうわけですよね。長いあいだ、中国のものを入れることに慣れているから、外国語の文献を翻訳するにしても、日本語に存在しない概念を二文字の漢字熟語に置き換えるだけだから、ほとんど「漢訳」なんですよね。

 ルソーの『社会契約論』は中江兆民が訳すんですけど、日本語訳と漢訳を同時にやっているんです。意識としては、外国語を外国語に置き換えているだけだから、それによって民族的アイデンティティが揺るがされるとか、そういうことは起きないわけです。だから、日本人は外来のものの受容と換骨奪胎が得意なんです。土着語的な本体の上に、外国起源の新しい概念を「トッピング」するだけなんですから。

この語らいには、大使も溜飲を下げたしだいでおます♪

難しいテーマでも、お二人にすれば、おばさん戦略でゲリラのように語っています。
(まるで、掛け合いマンザイのようでおま♪)
p199~201
中沢:作家でも世界病にとりつかれるとダメになるね。

内田:日本人はいきなり世界をめざしちゃダメですよ。英語でロックを歌って世界をめざすっていうのは違うんです。村上春樹だって世界をめざして、英語で書くために日本を出ていったんじゃない。むしろ文壇や批評家の嫉妬や憎しみというドメスティックな圧力に押し出されるように日本を出て、結果的に世界作家になった。文壇の嫉妬なんか「ぜんぜん気にならない」という人だったら、そもそも日本を出て行きませんからね。村上春樹はローカリティが生み出した世界性ですよ。

<おばさんはゲリラ戦>
内田:日本人って、女性ジェンダー化しているときに、いちばんパフォーマンスがいいんじゃないかな。「俺は男だ!」って意気があると、ろくなことがない。おばさんは保守だし、おばさんは革命なんて、絶対にやないし。

中沢:レーニンだって保守。ラディカルな保守じゃないですか。

内田:「そんなものは保守とは言わん!」ってひっくり返すのが、ラディカルな保守。

中沢:いいですね。レーニンの『国家と革命』はやっぱりいいなって思います。民営化していけば最終的には官僚組織はなくなり、国家は眠りこんで、博物館へ送られるようになる、これがわれわれの革命の理想である、と。破壊とかそういうことじゃなくて、もっと高所に立って、ものを考えているんですよね。

内田:レーニンは革命的おばさんだった。

中沢:トロツキーは革命家だった。『はじまりのレーニン』という本でそういうことを書いたんだけど、なかなかわかってもらえなくてね(笑)。

内田:中沢さんもおばさんだから、虐げられてたのかな。学会っておじさんの世界だから。

中沢:アカデミズムの世界では、上野千鶴子みたいにおじさんでないとやっていけない。
内田:フェミニズムって不思議な理論ですよね。徹底的におじさん的な言説で、ぜんぜん女性性がないでしょ。「女性性って、もっとやさしくて、受容的なものなんじゃないですか」って言うと、「それは父権性イデオロギーが押しつけた女性性である」って反論されるんだけど、そいうご本人は攻撃性にしても論理へのこだわりにしても、「父権性が押しつけた男性性」そのものですからね。

中沢:ヨーロッパの学会は、ユダヤ人が中心ですね。

内田:ユダヤ人はヨーロッパ文化におけるおばさんだから。辺境民はおばさん化しちゃうんです。アメリカの場合だと、先住民族とアフリカ系、ユダヤ系、それからアイルランド系、イタリア系、東欧系、アジア系も、周縁に追いやられた人たちというのは、どうしても生きていく上でおばさん化するわけですよ。メインストリームにいるのはおじさんだから、力で負けてしまう。だから「あんたたちが欲しがってるものなんか、いらないよ」っていう方向へ行くしかない。

中沢:あたしたち、そんなの欲しくないもん(笑)。アカデミズムの世界へ行こうにも、大学には居場所がないから、人類学なんかやって先住民族の研究に入っていくわけですね。

内田:正規戦じゃなくてゲリラ戦ね。おばさんの本性はゲリラ戦です。ニッチとゲリラ。「宗教学はゲリラだ!」と教えられた中沢さんがいて。

中沢:柳川啓一って偉いよね。

内田:中沢さんはその遺訓を継いで、ゲリラとおばさん戦略で戦っているわけです。それって日本人の気性に合っている気がする。

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