居住の貧困

我が家は、阪神・淡路大震災の後に、一戸建てのプレハブ住宅を建てたわけですが・・・
たぶん、この震災がなければ木質系の在来工法を選んでいただろうと思うわけです。
確かに地震に対してはプレハブ住宅が一番強かったが、プレハブ住宅が好きというのでもなかったのです。

このように個人的な好き嫌いがあるのだが、この本でプレハブ住宅がどのように書かれているか、興味深いのです。


【居住の貧困】
居住

本間義人著、岩波書店、2009年刊

<「BOOK」データベース>より
職を失い、住まいを奪われる人たち、団地で進む高齢化と孤独死、規制緩和がもたらしたいびつな住環境…。人権としての居住権が軽視され、住まいの安心・安全が脅かされている日本社会の現状を詳細に報告。社会政策から経済対策へと変容した、戦後の住宅政策の軌跡を検証し、諸外国の実態をもとに、具体的な打開策を提言する。
【目次】
第1章 住む場がなくなる/第2章 いびつな居住と住環境/第3章 居住実態の変容、そして固定化へ/第4章 「公」から市場へ-住宅政策の変容/第5章 諸外国に見る住宅政策/第6章 「居住の貧困」を克服できるか

<読む前の大使寸評>
我が家は、阪神・淡路大震災の後に、一戸建てのプレハブ住宅を建てたわけですが・・・
たぶん、この震災がなければ木質系の在来工法を選んでいただろうと思うわけです。
この本で、プレハブ住宅がどのように書かれているか、興味深いのです。

rakuten居住の貧困


プレハブ住宅と分譲マンションの出現で、街の景観が変わったほどですが、そのあたりを見てみましょう
p137~142
<プレハブ住宅の発展>
 住宅産業としてのプレハブメーカーが登場するのも、1950年代から60年代にかけてです。たとえば、もっとも古い積水化学は47年設立ですが、ナショナル住宅産業が50年、ミサワホームが51年、大和ハウスが55年、積水ハウスが60年といった具合です。そして87年には日経・住宅供給ランキング130社の上位5位までを、これらプレハブメーカーが占めるまでに成長することになります。これは国の産業政策としてのプレハブメーカー育成策によるところが大きかったのです。

 プレハブ住宅は当初、組み立て住宅と呼ばれていました。価格は安いが粗悪で、物置などに使われることが多かったのです。ところが、東京オリンピック直前の63年、住宅建築の需要に対応する名目で、建設省が省内に「建築生産近代化促進協議会」を設けてプレハブ住宅促進を打ち出し、「住宅建設工業化の基本構想」をまとめました。それ以降、プレハブ住宅が一挙に拡大することになります。

 さらに71年、建設省と通産省が80年までに一戸建てプレハブ住宅を、75年当時の約半分の価格(床面積100平方メートルで500万円台)で供給しようという「ハウス55」なるプロジェクトをスタートさせます。それによって、供給拡大に一層拍車がかかることになり、従来工法による住宅供給を超えることになったのです。つまり、国の後押しがあって、プレハブ住宅の需要が増え、メーカーはその基盤を確かなものにしていったのです。

 しかし、プレハブ住宅は戸建てが中心でしたから、都市空間を著しく改変するまでには至りませんでした。その都市空間が一変するのはマンションという集合住宅供給が住宅産業の主力になるに至ってからのことです。

<大型分譲集合住宅の建築ラッシュ>
 戦後の東京で分譲集合住宅が初めて登場したのは1956年のことです。日本信販の子会社であった信販コーポラスが新宿区四谷に建てた四谷コーポラスが最初です。この集合住宅は高級志向で、当時としては珍しいセントラルヒーティングを備えており、500万~800万円台で分譲されました。同年には東急代官山アパートが賃貸集合住宅として誕生しています。

 こうした富裕層を対象としたものが大衆化するのは、秀和が60年に青山レジデンスという集合住宅を売り出してからだといわれています。これらはいずれも都心につくられましたが、60年代末になると、郊外に大型の団地まで現われることになります。田んぼの中に公団や公社の団地と同様な街が出現したわけです。

 ただし、このあたりまでは民間集合住宅の開発によって、周辺住民が異議を唱えるほどに空間が改変されてしまうことはなかったように思われます。また住宅産業も今日ほど巨大化していませんでした。それが一変するのは中曽根内閣によって、民間による都市再開発が進められて以来のことではないかと思われます。

 中曽根内閣による民間資本への支援策は、都市・建築規制の緩和と国公有地の払い下げの二つを中心に進められました。うち規制緩和は、83年4月に経済対策閣僚会議で「今後の経済対策について―規制の緩和策による民間投資の推進策」が決定されたのを受けて、一気に走りだします。政府に民間活力検討委員会が設けられ、その報告に基き、建設省がまとめた「規制緩和等による都市開発の促進方策」は、それまでの都市計画法や建築基準法が行ってきた規制策を大幅に緩和して、民間資本が都市開発に参入しやすくしようとするもので、きわめて多岐にわたるものでした。

 それは例えば、都市計画を見直し、大都市中心部の住宅地を中高層住宅に代える、特定街区での容積率の割り増しを行い、複数街区では未利用容積の移転を可能にする、住宅を用途とした建築物に大幅な容積率の割り増しを認める市街地住宅総合制度を積極的に活用する、などといった内容でした。これにより民間資本は市街地に大型集合住宅を開発しやすくなったのです。

 東京では、隅田川の景観を一変させた超高層の集合住宅が出現することになり、それに続き各所でいわゆるタワーマンションと称される巨大集合住宅の建設ラッシュが起こります。そして住民との間でさまざまな紛争を起こすことにもなったのです。こうした施策が「中曽根アーバンルネッサンス」といわれたのは前述している通りです。 

<住宅産業の繁栄、住宅政策の貧困>
 国公有地の払い下げについては、中曽根首相の指示で政府に国公有地等有効活用推進本部が設けられ、まず人口10万人以上の都市にある国有地163件(65ヘクタール)などを払い下げることが決定されます。これを受けて大蔵省理財局長の私的諮問機関、公務員宿舎問題研究会が、わずか1ヵ月の検討で、そのモデル第一号として東京都新宿区の西戸山団地(30ヘクタール)の払い下げを決めたのを皮切りに、各地で旧国鉄用地を含め、国公有地の払い下げが行われることとなります。

 この西戸山団地の払い下げを1983年、随意契約で受けたのは、三菱地所を発起人総代とする出資者募集に応じた不動産業56社により設立された西戸山開発会社です。この会社の中心になったのは中曽根首相に個人献金をしていた人物でした。同社はそれまで中層400戸の団地を中高層670戸の集合住宅団地に再開発しました。
(中略)

 いずれにしても、この中曽根民活はそれまでの都市における生活空間を経済空間に変え、これをきっかけに大手住宅産業とデベロッパーがますます巨大化していくことになります。

 こうした直接、住宅政策によらない、むしろ産業政策として進められた住宅供給が中高所得層の住宅取得・改善に果たした役割は無視できないところですが、だとしたら住宅政策は、そうした住宅供給に応じられない低所得層を対象とした施策をより重点的に進めるべき公的責任があったはずです。
 その公的責任が縮小するばかりなので、逆に住宅産業による住宅供給が隆盛の一途をたどり、低所得層まで無理をして住宅取得するケースが増えるのです。

 その結果、ローン地獄や破産状態に追い込まれる人たちが増え、また居住貧困、居住格差が拡大し、さらには街全体が壊れていっているのは、どう見てもいびつとしかいいようがありません。


確かに東京の様変わりは劇的だったけど、中曽根さんと秀和が裏で繋がっていたりして?(未確認でおます)

セーフティネットや「貧困ビジネス」に触れているあたりを、見てみましょう。
つい最近、簡易宿泊所(木造賃貸アパート)の火災で、構造的欠陥が明るみになった報道がありましたね。
p204~206
<住まいなき人たちへのセーフティネット>
 いうまでもなく、セーフティネットでもっとも緊急を要するのは住まいなき人たちに対するものです。年越し派遣村に集まった人たちに対し、政府は公営住宅や雇用促進住宅への斡旋を行いましたが、これが一時しのぎのものでしかなかったのは、すでに指摘してきた通りです。では、ほかにセーフティネットはあるのでしょうか。生活保護法受給者に対するものがあることはあります。

 前述したように、東京都では自立支援を目的にした保護施設が10ヵ所(定員901人)あるものの、常時満室の状況で、入所するには6~10ヶ月待たなければなりません。
 ほかに救護施設10施設(定員901人)、宿所提供施設が6施設(定員511人)、特別区宿泊施設11施設(定員825人)がありますが、これも常時満室状態です。しかも増設の予定はありません。
 住まいを失っても、受け入れてもらえるところがないのが実情です。そこで役所は第二種社会福祉事業として委託している、無料または低額料金の民間の宿泊施設を斡旋するしかありません。

 その民間宿泊所は08年の時点で、都内に170施設(定員5250人)ありますが、実はこれが「貧困ビジネス」になっているのです。つまり、入所するさいに施設事業者に生活保護費が入金される通帳を預けることが慣習化されていたり、本人が生活保護費を受け取る役所で、同行してきている施設職員に受けとったばかりのお金を徴収されたり、本人には保護費のごく一部しか入らない仕組みの施設が少なくないのです。

 これらの施設の多くは、木造賃貸アパートなどを利用して運営されているケースがほとんどで、しかも一人の管理人が数十人の入所者を世話している施設が多いといいます。これがセーフティネットといえるはずもありません。

 しかし、生活保護費を支給する自治体は、こうした宿泊所が単なる届出で開所できるので、その運営実態を把握していません。こうした施設が住まいなき人たちをいかに食い物にしてビジネスを成立させているかは、04年に132施設(定員3700人)だったのが4年あまりで170施設に増えていることからもうかがえます。

 こう見てくると、住まいそのもののセーフティネットはないに等しいといっていいでしょう。国にも自治体にもないに等しい。住宅運動団体などによる「国民の住まいを守る全国連絡会」が、年越し派遣村が出現する1年以上も前の07年10月に、当時の冬柴鉄三国土交通相に、住宅セーフティネット構築の要請書を出していますが、もちろんこれが顧みられることはありませんでした。


住宅改善、空き室利用、地域活性化などに触れているあたりを見てみましょう。
p206~208
<地元、住民、学生たちの取り組み>
 不良・欠陥住宅に住んでいて住宅改善を渇望している世帯などに対しては、たとえば墨田区京島で、区の公社と商店街など地元の人たちによる「まちづくりセンター」が独自の事業をしていることが知られています。それは「あなたの住まいづくりを応援します」というもので、近隣の住民に対し、住宅改修、バリアフリーのノウハウの相談のほか、公的融資の斡旋、商店には仮営業所の貸出しまで行っています。
 これにより地区内にすでに100戸以上のコミュニティ住宅が建設されて住宅改善が図られたといいますから、見上げた地元パワーです。

 この京島地区が、大地震による被害が心配される都内の木造住宅密集地区の中で、より改善が進んでいるのは、こうした地元パワーによるセーフティネットが機能しているからにほかなりません。しかし、こうした例はまだまだ少ないのが実情です。

 単身高齢者に対してセーフティネットを張ろうとする試みは徐々に広がってきてはいます。新宿区の都営戸山団地における専用端末機によるホットラインの設置、あるいは千葉県松戸市のUR常磐平団地における同様な試みがなされています。

 板橋区のUR高島平団地では、近くの大東文化大学による「高島平再生プロジェクト」が開始されています。これは大学と団地に住む人たちが共同で地域活性化に取り組もうというプロジェクトです。高齢者の多い団地を少しでも若返らせようという意図のもと、団地内住宅を借上げて学生のルームシェアをまず行いました。

 空き室を利用して、留学生や住宅に困っている学生数人が一室で暮らす。これにより学生は安い家賃で住まいを確保できる。近隣の高齢者入居者にとっては隣りに若い人が居住していることによって、いざというときに頼れることになる。まだ数は少ないのですが、大学ではこれを徐々に広げていきたいと言っています。これは空き室対策としてURにとっても有効なはずです。

 大学ではそのほかに、団地内商店街の空き店舗を借りて「コミュニティ・カフェ・サンク」をつくったりしています。これは団地の高齢者の立ち寄り場所で、団地住民を対象にしたミニFM放送の設備も備えています。これらにより団地の高齢者の安心と安全を確保しようというわけです。大学はこのプロジェクトに1000万円を費やしたといいます。幸い、このプロジェクトは07年度、文部科学省に地域活性化プロジェクトとして採用され、助成金が出たとのことで、こうしたプロジェクトを発想した大学や学生は賞賛に値するでしょう。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック