巷談 中国近代英傑列伝

<巷談 中国近代英傑列伝>
図書館で陳舜臣著『巷談 中国近代英傑列伝』を手にしたが・・・
おお神戸にゆかりのある陳舜臣さんの本やんけ♪

このところ、嫌中ムードに燃え上がる大使にブレーキをかける意味でも、この本を読んでみるか・・・・ということでおます。


【巷談 中国近代英傑列伝】
中国

陳舜臣著、集英社、2006年刊

<「BOOK」データベース>より
中国近代の幕開けは阿片戦争に始まる。アヘン取締りの欽差大臣、林則徐は戦争の責任をとって新疆に左遷されるが、彼がそこで構想したのは、塞防論、すなわちロシアとの国境線を守るべきというものであった。それに対する海防論の首領は李鴻章である。以来、中国近代の歴史はこのふたつの政治思想の中で揺れる。また、洋務運動から戊戌変法を経て辛亥革命へと続く苦難の歴史は、あまたの英傑の物語を生むことになる。本書では政治思想家にとどまらず、文人墨客をふくめた十五人の男たちに鮮やかな光をあてる。

<読む前の大使寸評>
このところ、嫌中ムードに燃え上がる大使にブレーキをかける意味でも、この本を読んでみるか・・・・ということでおます。

rakuten巷談 中国近代英傑列伝


中国の文化人といえば、何といっても魯迅でしょう。
ということで、先ず魯迅を見てみます。

<中国人の「たましい」を革新する魯迅>よりp119~121
 中国の近代化の幕開けは、1840年のアヘン戦争から、と言われます。外国の「力」と接触して、自国の衰微を人びとが自覚したのが、中国の近代化のはじまりでした。アヘン戦争のあと、清国の衰退はだれの目にもあきらかでした。太平天国の戦争、清仏戦争、日清戦争と清国の傾斜はますます急になります。清国を倒して、新しい政権を打ち立てるしか、国の新生はない。そして1911年、辛亥革命によって帝国体制は倒され、中国は共和体制に移行します。

 「体制」は文字のとおり、人間の体にあたります。近代中国の「からだ」をつくったのは孫文であり、「たましい」をつくったのは魯迅です。はじめ医学を学んだ魯迅は「中国人は医学で体を治すより先に、心を治さなければならない」として、文学活動に入る決心をするのです。

 現代の私たちにとっては、魯迅を知ることは、近代中国を知ることなのです。
 魯迅はペンネームで、姓は周、名は樹人です。魯は母方の姓からとりました。1881年、セッコウ省紹興の生まれで、原籍は湖南の道州です。とはいえ紹興に移住して魯迅の代で14世なので、もう生粋の紹興人と言ってよいでしょう。周家が紹興へ移住したのは、明末清初のころではないかと推測できます。まだもとの土地の気風がすこしは残る歳月かもしれません。「魯迅の背骨はもっとも硬く、彼には奴隷根性やへつらいの態度がいささかもなかった」とは毛沢東の魯迅評ですが、魯迅の背骨の硬さは、ひょっとすると湖南道州のものではないかと思えます。

 紹興はもともと才子を生んだ土地です。「紹興爺」といって、名秘書の産地です。天下の形勢を知ろうと思えば、紹興爺に聞けという諺があります。秘書であるからには、裏面工作をしなければなりません。時代の流れを敏感にとらえて、主人のための方向転換もしなければなりません。頭の回転が速くなければなりません。頭の回転が速いことにかけては、魯迅は紹興の人間です。しかし、魯迅が裏面工作や妥協を得意とする紹興爺のたぐいではないことも確かです。頭脳は紹興ですが、背骨はどうやら湖南のものであるらしい。

 湖南は昔から頑固者の産地として知られています。妥協を知らない、硬骨の湖南人の祖型は屈原(前343頃~277頃)です。屈原を生んだ楚は、すなわち湖南です。魯迅を読んでいると、ふと屈原が浮かびます。また屈原を読んでいて、いつのまにか思いを魯迅に馳せることもあります。屈原の詩は、憂国の情から発したものが多く、きわめて政治的です。
 魯迅の作品は、中国が危急存亡のときにつくられました。魯迅は勇敢に戦いました。死に臨むまで、文学者、革命者としての戦いを放棄しませんでした。祖型の屈原よりも、魯迅のほうがみごとに湖南的な背骨の硬さをあらわしているように思えます。


辛亥革命から1932年の上海事変頃にかけての魯迅を見てみましょう。
p126~129
 さらに、辛亥革命につづく袁世凱ら軍閥政治の台頭に国民はうんざりします。王朝を倒した勢力が、結局、旧勢力に近い者にその成果を奪われた歴史の事例は多い。こんどは軍閥の背後に外国の勢力があって、より複雑になっていました。

 このころ北京にいた魯迅は「辛亥革命を見、第二革命を見、袁世凱の帝号自称、張勲の復ヘキを見、見来たり、見去って疑いはじめた。かくて失望し、落胆しきっていた」と、知識人の代表的な精神状況を述べています。
 
 教育部に入った魯迅は、北京大学で小説史の講義などをしていました。その前に同郷の銭玄同にすすめられて、「白話文」のモデルともいうべき『狂人日記』が発表されたのは、5・4運動の前年、1918年のことです。

 『狂人日記』は、儒教を徹底的に批判した小説で、儒教は人を食うものだ、と宣言します。掲載誌は1915年から発刊されていた陳独秀の『新青年』です。『新青年』の果たした啓蒙活動は高く評価されなければならないものです。その後、『シン報』に連載したのが『阿Q正伝』です。中国人の心に深く巣食っている主人公阿Qと同じ精神「弱い自分が負けると、相手をろくでもないと考えることで精神的に勝利しようとする習性」を容赦なく暴き出した小説です。当時、読者はまるで自分のことを書かれているような気持ちになり、小説はたいへんな評判を呼ぶことになります。

 1919年5月4日、北京で起きた大規模な反日デモは、中国の反帝国主義運動として全国に展開され、学生、知識人の運動から労働者、市民まで参加する民族運動に発展します。この5・4運動は文化面、精神面での新しい革命でもありました。話し言葉で書く白話文はこのころには定着してきました。

 5・4運動以後、中国の革命運動は、政治的には反帝国主義、精神的には反封建主義を明確にして、個性の解放をめざしていきます。意識革命とその周辺のものは、すべて5・4運動と関係があります。前途に希望を失っていた知識人も、5・4運動で自信をとりもどしたのです。

 1932年1月、上海事変が起きます。魯迅はイギリス租界にあった友人の内山完造の家に避難します。魯迅には、蒋介石政府から逮捕状が出ていました。蒋介石政府の警察権のおよばない租界で、かろうじて文筆による抵抗をしていたのです。このころ、日本の友人である作家佐藤春夫や中国文学者増田渉たちは、魯迅の身辺の危険を恐れ、来日を誘っています。しかし、魯迅はそれをことわります。

 若いときに留学した日本に再び行くことは魯迅の夢でした。しかし、蒋介石政府は日本の侵略に背をむけて、内戦をやめて抗日に立ちあがれと請願する学生を大勢、殺しています。いまは戦いのときです。若い彼らの死にむくいるためにも、戦いを放棄することはできないのです。

 翌年、魯迅は友人の楊センをテロで失います。白色テロがつぎに狙うのは魯迅と言われていました。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック