島国チャイニーズ2

<島国チャイニーズ2>
図書館で『島国チャイニーズ』という本を手にしたが・・・・
「反中」「嫌中」が蔓延するなか、野村進の東アジアを描くノンフィクションは貴重なフィールドワークだと思うのです。


【島国チャイニーズ】
中国

野村進著、講談社、2011年刊

<「BOOK」データベース>より
「反中」「嫌中」が蔓延する日本に生きる在日チャイニーズたちのひたむきな人生模様。【目次】
第1章 劇団四季の中国人俳優たち/第2章 日本で大学教授になる中国人/第3章 中国人芥川賞作家の誕生/第4章 留学生は“反日”か/第5章 北国の中国人妻たち/第6章 神戸中華同文学校/第7章 女たちの池袋チャイナタウン

<大使寸評>
「反中」「嫌中」が蔓延するなか、野村進の東アジアを描くノンフィクションは貴重なフィールドワークだと思うのです。

著者の本では、『コリアン世界の旅』『調べる技術・書く技術』を読んだけど、ええでぇ♪

rakuten島国チャイニーズ


在日中国人と在日韓国・朝鮮人とでは、日本に対する風当たりがずいぶんと違うのはなぜ?
著者の野村進が、この疑問に対してレポートしているが・・・
移住に対する感覚や国外での処世術が、中華の民と朝鮮半島の民とでは違っていたようです。つまり、中華の民が華僑としての長い歴史を背負っている分、処世術に長けているようです。
p219~225
 私は中華学校を見るとき、いつのまにか朝鮮学校と比較している自分に気づく。
 老祥記の曹の同世代で、朝鮮学校に通っていた私の友人・知人たちは、まず例外なく日本の生徒や学生との喧嘩を体験したものだ。それが集団同士の乱闘事件に発展し、ときには新聞沙汰になることさえあった。映画の『パッチギ!』に描かれた世界は、絵空事ではなかったのである。  

 曹にこの話題を向けると、うんうんとうんずきながら聞いていたが、
 「言われてみれば、日本の方に勝つとか負けるとかいうのは、まったくなかったですねえ。日本に対する敵愾心というのは、まったくなかったですねえ」
 と不思議そうに答えた。
 私はしつこくこだわった。前述したように、在日韓国・朝鮮人と同じく華僑たちも、就職先は「中華料理屋か、親父の貿易会社か、そんなとこしかあれへん」と言われるような就職差別に長らく晒されてきた。日中戦争時に「敵国人」として弾圧された記憶も、年長者には生々しく残っている。戦後も、同文学校の校門前に、日本人の「ツッパリ」たちが、喧嘩相手を求めてたむろしている時期もあった。

 「中国は最終的に戦勝国に入りましたから」
 曹が、ぽつりと言った。そうか、そういう見方もあるのか。
 しかし、彼が続けて言った言葉のほうに、より本質的な理由がかいま見られる気がする。
 「『落地生根』という言葉、ごぞんじでしょう」
 むろん知っている。華僑の生き方を象徴する言葉だ。生まれ故郷を離れて、遠く異国の地に渡ったら、そこに根をおろし、俗に言う「郷に入っては郷に従え」をよしとする処世の術である。

 「これは、日本の社会になじみながら、華僑の花を咲かせようという教えだと思うんです。先輩の華僑のみなさんが、戦前からずっと苦労されて、花を咲かす素地をつくってくださった。ぼくらが日本の社会でちゃんと「」を積めば、回り回ってぼくらの花も咲く。華僑としてのプライドを認めてもらいながら、日本の方との共存共栄をはかっていく。そういうことをぼくらは、毎日の生活でも同文学校でも、知らず知らずのうちに教えられてきたんだろうと思うんです」

 このような考え方は、曹個人の独特な人生観ではない。少なくとも神戸の華僑社会には、広く受け入れられているもののようだ。
 同じく古くからの中華街がある横浜とも長崎とも違う価値観は、その源を神戸の歴史にたどることができる。

 ひとつだけ例示したい。
 1972年の日中国交回復のさい、われわれ日本人が知らないところで、日本の華僑社会は大混乱に陥っていた。台湾、すなわち中華民国の国籍を持つ華僑たちの多くが、国籍の喪失や中華人民共和国国籍への強制的な変更を恐れて、われ先に日本国籍取得に走ったのである。

 中華学校も渦中に投げ込まれた。横浜では台湾支持派と大陸支持派の対立が激化し、ついに学校そのものが分裂して、横浜にはふたつの中華学校がにらみ合う事態となった。当時の敵対ぶりはもはや過去のものだが、横浜に中華学校が併存する状況はいまも変っていない。

 神戸でも、両派の激しい対峙があった。しかし、それが中華学校を二分する騒動に至らなかったのはなぜなのか。1959年から94年まで、実に35年の長きにわたって同文学校で教鞭をとった陳福臨は、こう振り返る。

 「左からも右からも攻撃される時代でしたからね。中華学校は華僑社会の中心ですかあら、ここを手につかめば拠点ができると両方とも考えるわけです。日本の右翼が干渉しにきたこともあります。両方の板ばさみになって、当時の校長先生は非常にご苦労されたことでしょう。彼は常日頃、こう言っていました。心の中に、自分の国の国旗を秘めておけばいい、と」

 分裂に至らなかった理由を、陳・元教諭は、当時の校長をはじめとする指導者層の優秀さや、「家長会」と呼ばれる父兄会、校友会などの団結のかたさに求めている。

 問わず語りに、両親の話になった。
 「私の両親は、清朝末期に日本に来て、もう国へは二度と帰れなかったわけです。いまはお金さえあれば帰れるすばらしい時代だけど、一世、二世の人たちは、どんなに帰りたくても帰れませんでした」

 日清戦争以来の日中の対立が、華僑ひとりひとりの人生に大きな影を落としていたのである。 
 「いま思えば、かわいそうな、みじめな存在です。華僑には、そういう苦難の歴史があるんです。結局、なんで外国の日本に来たかといったら、自分の国で食えないから、腹一杯おまんまを食べられないから、仕方なく外国にやって来て、住まわしてもらってる。『華僑』の『僑』の字は『仮住まい』という意味ですからね。たとえ仮住まいでも、この地に骨を埋めるしかない。華僑は常日頃から、そういうふうに思ってきたんです」 

(中略)
 ひとつの見方を提示しよう。華僑と在日韓国・朝鮮人の「民族」と「移動」に対する受け取り方のおおもとの違いである。
 多民族社会であり、かつ他民族による王朝にもなじんできた中国の人々にとっては、ひとくくりに同じ「」とされても、お互いに言葉が通じないのは日常茶飯事であった。同文学校でも、開校当初は母語とする生徒の数が多い広東語で授業がおこなわれていたものの、これでは福建省や折江省など他の地域の言葉しかわからない生徒たちに不利益が生じるため、北京語を学校内での共通語に定めたのである。

 彼らはまた、出稼ぎや移住にも慣れていた。広大な国土を持つ中国大陸内での出稼ぎや、飢饉などによる流浪の延長線上に、海外への移住があった。国内での移動も、国外への移動も、精神面では大差なく、いわば地続きのように受け入れられたのである。
 「日本に来ることは、中国の中の別のもっと遠い地域に行くのと近い感覚なんです」
 という声さえ聞いた。

 かたや朝鮮半島の人々は、ほぼ例外なく一民族・一言語の世界の住人であった。長く続いた朝鮮王朝時代には、庶民の出稼ぎも移住も皆無に近かった。それゆえ、朝鮮が植民地化されてからの日本本土への出稼ぎや移住は、まったくの異界に投げ出されたも同然であった。

 そこに、日本語の強制や創氏改名、日本社会の最下層に組み込まれての低賃金・重労働、過酷な民族差別といった、人間としての誇りをずたずたに引き裂かれるような出来事が降り掛かるのである。彼らにとっての「解放後」(戦後)の民族教育は、かくも踏みにじられた誇りの回復を第一の目的としていた。

 一方の華僑は、外国籍であったがゆえに、民族の名前や言語を朝鮮人のようには奪われることなく、被差別体験も朝鮮人ほどには深刻ではなかったのである。
 こうした違いからか、私がインタビューした数多くの華僑の誰一人として自ら明言はしなかったけれど、黙認はした事実がある。それは、在日韓国・朝鮮人社会がとってきた、民族差別を日本社会に訴えるやり方とは、華僑はあえて距離を置こうとしてきたことだ。もっとはっきり言えば、私が当然の権利の主張と考えている民族差別反対運動のような動きとは、華僑はかかわらないほうが無難とみなしてきたのである。



著者は「あとがき」で「在米ジャパニーズ」を引き合いに出して「島国チャイニーズ」との類似を語っているので見てみましょう。目からウロコが落ちました。
p282~284
 日露戦争は、アジアの小国・日本がヨーロッパの大国ロシアを打ち破った大事件と衝撃的に受けとめられ、日本と黄色人種への脅威や警戒感が、ヨーロッパに引き続き、アメリカの白人社会をも過剰反応に走らせたのである。それはやがて、日本人移民の土地所有の禁止や、さらに日本人移民そのものを禁止する法律の制定といった排日運動へと発展していった。

 このような日米の力関係の変化が生んだ反目は、最近の、繁栄にやや陰りを見せている日本と、対照的に勢いよく台頭してきた中国とのあいだで頻発する軋轢と、構造的にはよく似ているのではないか。双方の被害者・加害者意識のからみあいも、似通っているように見える。
 
 言うまでもなく、黄禍論と排日運動の被害を最も手ひどくこうむったのは、日系アメリカ人であった。本書に則して言うなら「在米ジャパニーズ」たちである。

 彼らの大半は、日本での経済苦からのがれ、豊かさを求めてアメリカに渡った人々であったものの数多く加わっていた事実は、戦後、徐々に知られるようになっている。
 アメリカは、自由と平等と繁栄のシンボルにほかならなかった。日本人移民のほぼ全員が当初は、親米や好米の意識に傾いていた。

 ところが、彼らを待ち受けていたのは、くだんの言辞に象徴される露骨な人種差別と、日米開戦後の強制収容所送りだったのである。当時アメリカ人にとっての敵国人であったドイツ系やイタリア系の住民には手出しをせず、日系アメリカ人だけを標的とした強制収用は、明白な人種偏見の産物であった事実を、戦後アメリカ政府も認め、公式に謝罪と補償をおこなっている。
(中略)

 こういった在米ジャパニーズの体験を、現在の在日チャイニーズにそのまま重ね合わせることは、むろんできない。だが、差別や偏見のパターンが驚くほど酷似している点や、その淵源に、私の見たところ「無知にもとずく恐怖」とも言うべき共通項がある点は、よくよく押さえておかなければならないであろう。

 あえて乱暴な言い方をするが、日本人は中国人を恐れ、中国人は日本人を恐れているのである。


島国チャイニーズ1

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