読書画録

<読書画録>
図書館で『読書画録』という本を借りたのだが・・・
水彩画の淡い色彩がええな~♪
著名な小説の舞台を、スケッチとエッセイで織りなした絵本のような画録になっています。

安野先生


【読書画録】
安野

安野光雅著、講談社、1995年刊

<「BOOK」データベース>より
檸檬を一顆、美術書を積みあげた上にそっと置いてきた梶井基次郎のあとをたどって描く京都河原町丸善の面影。樋口一葉「たけくらべ」の吉原大門あたりから幸田文「おとうと」の向島まで、こよなく読書を愛しむ画家が描く小説の舞台。懐かしい日本の三十六の風景をスケッチとエッセイで織りなす珠玉の画文集。

<大使寸評>
安野さんの水彩画は、淡い色彩がええな~♪
著名な小説の舞台を、スケッチとエッセイで織りなした絵本のような画録になっています。
安野さんのエッセイに人柄が表れていて、これもええな~♪

rakuten読書画録


安野さんのエッセイに人柄が表れているが、大使好みのあたりを一つ紹介します。
(「大利根月夜」という歌は、カラオケの持ち歌でんがな♪)

<中山義秀『平手造酒』>p112~114より
「大利根月夜」という歌がある。演歌の中でも、もはや古典に入る名作であろう。わたしにもあの歌の平手造酒を、自分のこと、という思い入れで歌うと何だか気分の良くなる年頃があった。
 ~男平手ともてはやされて
  今じゃ浮世を三度笠

 の平手に、自分の名前を換えて歌うのである。
「もとを正せば侍育ち」以下は、ざっと次のような気分となる。
「もとはと言えば勝負師の出だ。何しろ千葉道場で碁を学び、師範代にまでなって、男平手よと知らぬものもなく、すれちがう娘さんはみんなふりむいたもんだ。あのころの仲間は皆、立派な碁打ちになっているのに、俺はやくざな三文絵かきだ。故郷じゃ妹が待つものを。何?世をすねた理由は何なのかと? いや、聞かないでもらいたい。武士の情だ・・・」

 なりはやくざにやつれていても、まだ碁では誰にも負けないぞ、という、空想的プライドに酔うのである。あれはアウトロウの歌である(わたしは、むかし、専門棋士になるのを止めた、書いたことがある。わたしを知る人は誰も信じないが、本気にした人もある。断っておくがこれらは冗談である)。
 このような替歌の実験をいちどやってみてもらいたい。きっと何ほどかの感慨を持たれることと思う。

 ところで『平手造酒』が中山義秀の作だと知る人は意外にすくない(昭和29年「オール読物」)。ころは幕末という騒々しい時代である。笹川は利根川べりの宿場、飯岡は外海に面した宿場で、地図によれば20キロメートルと離れていない。博徒新興勢力の笹川の繁蔵と飯岡の助五郎とは縄張りが接しているため小ぜりあいがつづくが、天保13年夏、諏訪神社の奉納相撲が仇になって、出入りが必至となった。天保が15年で終わって弘化と変わる。

 そのころ、酒と女で道場をしくじり旅人になって流れ渡る平手造酒の腕を見た繁蔵は、礼を尽して造酒を食客に迎えた。子分に剣を教える他は、駈け落ちの相手の芸者増次と二人で酒をのんだり魚を釣ったりして遊ばせてもらう毎日である。

 胸を病んでいるがやけになって大酒をのむ。その日も喀血した上、酒と熱で寝込んでいたところへ、早朝、助五郎一家がなぐりこみをかけてきた。助っ人を頼む使いが八方へ飛ぶ、繁蔵は報せるなというのに、子分は造酒のところへ駆けて行った。
「先生、大変だ。飯岡の野郎どもが、百人以上押しよせてきた」

 造酒は飛び起きたが足元はそうろうとしている。
 増次は刀をかくして、「病気だものしかたがないじゃないか、行かないで」とすがりつく。「男がすたる。増次、刀をだしてくれ」とうなるように言う。
 かれなりに死期を悟り、冷酒をあおって丸腰のまま表に出る。凄惨な闘いとなり、助五郎を追って竹薮の中に入り、また喀血したところを後から横腹をえぐられる。

〔付〕後日、知友、永井滋から、平手造酒は中山義秀の創作ではなく、遊侠伝中の人物であるとの御教示をいただいた。


安野さんがあとがきで読書の奨めや創造の源泉を説いているので、紹介します。

<あとがき>p152~155より
 ところで、もうひとつ別の対談の宿題がある。これは「アナログを見直そう」というテーマなのだそうだ。
 時計を例にするとよくわかるが、古来の長短針のある時計がアナログで、このごろはやりの数字であらわされる時計がデジタルにあたる。
 では文章はそのどちらかというと、文字のひとつひとつは記号で、それが直線的に並んでいるわけだからデジタルと考えたほうがいい。これに対して映画は平面的な画面が時間的にならんだものだからアナログと考えることができる。

 地図はアナログだが、「地図はアナログ」というときの地図という言葉は「地」と「図」というふたつの記号がならんでいるだけでデジタルにほかならない。しかし、「地図」という言葉から、たとえばあの平面の世界地図を思い浮かべたとしたら、その地図はアナログである。
 とまあ、宿題をまえにしてそんなことを考えていた。

 文章で書いたものは、どんなに優れたものでも記号の直線的な連続にすぎない。しかしそれを読むものの心の中には「」はおろか、時間空間を越え映画もおよばぬ世界を描き出すことができる。このように言葉が喚起する世界をうまく言いあらわす言葉を知らないから、ここでは文章世界と言うことにしておこう。

 このあたりから話は我田引水になるが、たとえば、「中勘助、銀の匙」とわずか六字を見ただけで、人それぞれに、ある思いが喚起されるはずである。それを読んだことのある人は勿論、そのほか中勘助の他の作品を読んだことがある人はなおのこと、もてあますほどの文章世界があらわれてくることだろう。
 文学のおもしろさとは、それを書いた者と読んだ者との文章世界がどのように重なるか、その重なりぐあいだと考えていいと思う。
 (中略)

 この本は、たとえば漱石とか『平家物語』などの作品によってひきおこされる、わたしの文章世界から、わたしの泣き言や、自慢話を抜き出して書いたものである。
 以上に弁解がましいことを書いたのは、この本の目次を見ただけでおわかりいただけるように、喚起性の多い、字句記号が沢山ならんでいるから、読む人の文章世界の責任において、どんなにでもおもしろくなるはずだ、と(責任回避の気分がないでもないが・・・)申しあげたかったのである。
(中略)

 わたしは「絵を勉強するのにはどうすればよいか」と聞かれて困ったとき、「本を読むのが一番いい、濫読でいい」という返事をすることにしている。これは絵を志す者だけでなく、科学者も政治家も商売をはじめる人も、およそだれでも、創造的な生きかたがしたければ、本を読まなければならないと言いたいのである。
 さきに文章世界という言葉でしか言えなかった頭の中の世界こそが、創造の源泉だろうと思うからである。


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