王と鳥

<王と鳥>
図書館で「王と鳥 スタジオジブリの原点」という本を借りて読んだのだが・・・
以前に観たDVDの「王と鳥」とともに、紹介します。


【王と鳥 スタジオジブリの原点】
王

高畑勲×叶精二×大塚康生 著、大月書店、2006年刊

<「MARC」データベース>より
若き日の高畑勲、宮崎駿に影響を与えたとされる、1979年に完成したフランスのアニメーション映画「王と鳥」を軸に、アニメーションの魅力、作品に込められた意味、国家と個人の関係、そして今の日本について考える。

<大使寸評>
この本の前半は「王と鳥あらすじ」となっていて、上にアニメ画面、下にあらすじという絵本スタイルになっています…しゃれてまんな♪

脚本にかかわったジャック・プレヴェールは『枯葉』の作詞で知られるが、脚本家が本業のようですね。まさにクロスメディアの芸術家なんだ♪
ところで、大塚康生という人はアニメ「白蛇伝」の原画にかかわったアニメーターとのことで、おみそれしました。「じゃりン子チエ」の作画監督でもあったそうです。

Amazon王と鳥 スタジオジブリの原点


この本のなかで、大塚康生さんが語っています。

<初めて人間の内面を描いたアニメーション>よりp68~70
 『やぶにらみの暴君』と『王と鳥』は、少なくとも当時アメリカでは封切られていません。『ニモ』(89年)を制作している頃、藤岡さん(東京ムービー新社社長)が『やぶにらみの暴君』のVHSを持って行って、観せたことがあるんです。
 字幕もないオリジナルのフランス語版ビデオでしたが、アメリカのスタッフは「こんな映画があったのか!」とびっくりして、腕を組んで考え込んでいました。

 アメリカ人はもともと自国の映画で満たされていて、他国の映画には興味が薄いでしょう。後に「ライオン・キング」を監督したロジェー・アラーズからは「日本人はこの映画をみんな見たのか」と聞かれました。「みんなとは言えないが普通の映画館で上映された」と答えると、「アメリカでは、こういう映画はなかったなぁ」とうつむいていましたよ。

 日本も戦後アメリカナイズされて現在に至っていますから、一般的にはヨーロッパの香り高い作品をちょっと敬遠する傾向があるでしょう。『王と鳥』も、正直いうとヒットしなくても公開することに大きな意味があると思う。芸術というものは時代を超えて評価されますから。ゴッホの生き方を思い出していただくとおわかりでしょう。

 資本主義的な生産では、どんなに素晴らしい作品でも、費やした資金は回収しなければならないし、ヒットしないと認められませんし、後世にも残せないでしょう。まっとうな長編アニメーションが作られたとして、今でも国内市場の一次興行だけで採算がとれるのは、一億を越す人口密集国であるアメリカと日本くらいのもので、ヨーロッパでもアジア諸国でも、自国の観客だけで回収するのはむずかしい。まして、50年代のフランスの国内市場だけで回収するというのは、かなり厳しかったと思います。天才の作品には資金も時間も人材も費やされて当然ですが、ヒットするかどうかは宣伝も含めて別の問題ですから。

 まして、政治的告発を含む作品、論理で作られた作品は大衆にソッポを向かれます。そういう意味では、たとえグリモーの意志どおり『やぶにらみの暴君』が完成していたとしても、かなり無謀な企画だったのではないでしょうか。

 「売れる・売れない」の市場原理に左右されずに作れたのは、国が支援体制をとっていた社会主義国だけでしょう。ソ連のイワノフ=ワノやアタマーノフ、中国の特偉などが、まともに食べていけたという状況は資本主義国では考えられません。いくらアニメーションに金がかかると言っても、ひとつの作品に戦闘機一機分も要りませんよ(笑)。いずれにしても、あの時期のフランスで長編を実現させたという意味で、『やぶにらみの暴君』の志は実に崇高ですね。あれが世界各国でヒットしていれば、アニメーションの歴史は変わっていたかもしれません。

 『やぶにらみの暴君』は後年、高畑勲さんと宮崎駿さんに影響を与えた、とよく語られます。高畑さんはさっき言った「人間の内面を描くことの可能性」という点が大きいと思います。一方、宮さん(宮崎駿)の場合は、高低差を描くという意味で、技術的演出的な影響を受けたと言えるんじゃないでしょうか。


高畑勲さんが、次のように述懐しています。
これだけ深い背景があったのか…笑って観ていた大使でした。

<自分はどの位置にいるのか?:高畑勲>よりp81~82
 プレヴェールは若いころ、パリの街をうろつきながら、最下層の人々の悲惨な生活を見ていた人なんです。そしてその現実を、あぐらをかいてのうのうと暮らしている紳士や市民が、ほんのはした金のために最下層の連中に殺される、そんなかたちで描き出していました。こんな社会じゃそんなことはいつでも起こるんだぜ、と紳士たちを脅すような詩なんです。だから貧しい人たちに対する共感ももちろんあるけれど、同時に詩や歌の受け手である紳士たちを手ひどくからかっていることにもなる。それでプレヴェールを嫌悪する人も多かったんです。プレヴェールはいつも批判や攻撃にさらされていました。

 『王と鳥』や『やぶにらみの暴君』も同じではないでしょうか。僕は『王と鳥』を見て、自分がこの縦型世界のどの位置にいるのか、それがひどく気になりました。王にはもちろん、虐げられている最下層の住人にも自分を重ね合わすことはできません。おそらくあの人っ子ひとりいないように見える中間の街にいて、少年少女を追っかけるときに出てきたり、ロボットの暴発にうろうろするあの連中のひとりかもしれない、と思ったのです。じつは、怪獣映画を見たりするといちばん気になるも、破壊されているところに自分は住んでいるのではないかな、このとき踏みつぶされたんじゃないかな、と思ってしまうんです。ところが普通はみんな主人公―地球防衛隊隊員だったり、不思議な倒錯が行われて怪獣の身に寄り添ったりしながら見ているらしい。もちろん現実は違うんですね。火の粉が降りかかってくる。実際僕も空襲のなかを逃げまどったし、あるいは人を踏みつけにしたりするかもしれない。

 プレヴェールはドイツ占領下もフランスにとどまって、『悪魔が夜来る』(42年)『天井桟敷の人々』(45年)など、時代劇の形を借りて、ナチスに抵抗する心意気を示す映画の脚本を書いた人です。作曲家コスマと映画美術家トローネルという二人のユダヤ系のスタッフをかくまって匿名で自分の仕事をさせるんですが、一貫してレジスタンスのメンバーじゃない、入らないんです。組織のなかに友達はいっぱいいるし、手助けをもしている―非常に危険な目にも遭っているんです。にもかかわらず組織には入らない。絶対平和主義者で、そのためにはまさに、あの鳥のような知恵が必要だったのではないでしょうか。
(中略)
 フランスでは「解放」と言われているんですが―第二次世界大戦はまだ終わっていないけれどフランスは解放された、その過程でドイツの軍港として使われていたブレストという町が連合軍側の爆撃で壊滅する。その廃墟に立って、プレヴェールは『バルバラ』という詩を作り、「なんてくだらないんだ、戦争は」と書くんです。これに対しては左右からすごく批判が強かったんですね。放送禁止になったりした。


巷では、『アナと雪の女王』のテーマソングが流れているが・・・
臍が曲がった大使は、つい「アメリカの資本主義的なアニメにうつつを抜かして」と思ったりするのです(笑)
ところで、今年のアカデミー賞名誉章が宮崎駿監督に贈られると発表されたそうですね。(28日発表)
アカデミー賞なんか欲しくないで!(と言ってもらいたいのだが)

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このアニメを大学図書館のDVDで観ていたので、日記より復刻します。

【王と鳥】
王と鳥

ポール・グリモー監督、1980年制作、2013.7.27観賞

<Movie Walker解説>より
目もくらむばかりにそびえ立つタキカルディ王国の高層宮殿。そこは、意に沿わない者を誰一人として生かしてはおかない孤独な王の居城だった。王の名はシャルル5+3+8=16世。皆は王を嫌い、王も皆を嫌いだった。唯一の気晴らしは、鳥を狩りすることと、独りでいること。愛することができたのは、絵の中の少女だけだった。王が引きこもる最上階の部屋には、3枚の絵が飾られていた。美しい羊飼い娘と煙突掃除の青年、そして、王自身の肖像画。ある夜、王が寝静まったその部屋で、3枚の絵が動き出す。手と手を重ねる娘と青年。ふたりは、恋をしていた。しかし、肖像画の王が娘に結婚を迫って二人の仲を引き裂こうとしたため、娘と青年は絵の中から逃げだした。肖像画の王は怒り狂い、自らも絵の中から飛び出して、ふたりを追う。しかしそのとき、騒ぎに気付いた本物の王が目を覚ました。目の前にいるのは、“もう一人の自分”。怯え慌てる本物の王は、肖像画の王によって落とし穴に落とされてしまう。本物の王に成り代わった肖像画の王は、娘と青年を捕まえるために国中に指名手配する。

<大使寸評>
ジブリのアニメにも影響を与えた作品だそうである。
たしかに、フランスの色彩感覚が感じられるし・・・
鳥が雄弁なところなどは、フランス人のエスプリ、ロジックが見えるような気がしたのです。

movie walker王と鳥


ジブリの公式サイトから「王と鳥」の存在を知ったわけですが・・・        
このアニメが高畑監督や谷川俊太郎など日本のクリエーターに与えたエピソードを紹介します。

高畑監督は「アルプスの少女ハイジ」のロケハンのために宮崎監督とともにスイスにでかけたようだが、その拘りの源にはこのアニメ(厳密には前身の「やぶにらみの暴君」という作品)があったようです。

「王と鳥」公式サイトより
絵から人物が抜けだして現実を生きはじめる、面白い!学生時代、私はこの「王と鳥」の前身である「やぶにらみの暴君」という作品に夢中になった。もしこれを見なかったら、漫画映画の道に進むなどということは思いもしなかっただろう。

 洗練された色彩と絶妙の遠近法、それが生み出す不思議な空間の魅力、奇想天外なアイディアの連鎖、人物の見事な性格描写、世界の強烈な垂直性、独特のユーモア。この映画は当時の既成観念をはるかに超えて、驚くべき斬新さでアニメーション映画の可能性を教えてくれた。

 夢中になったのは、表現が素晴らしかったからだけではない。奇想天外なアイディアやイメージが、ただの奇想でもギャグでもなく、その裏に、現代史の重く冷厳な事実をひとつひとつ隠していることに気づいたからだ。

 これは、単に独裁や抑圧からの解放をうたいあげるだけの古びた革命ファンタジーではない。一見矛盾や荒唐無稽に思える細部にこそ、じつは二十世紀が経験してきた「歴史」と「人間」の悲惨な真実が秘められている。そして作者は、次世代の私たちに、それをよくわきまえてこの世の「罠」に気をつけろ、と警告しているのだ。そうでなければ、どうして作者は第二次世界大戦直後に構想された「やぶにらみの暴君」を、わざわざ1970年代に「王と鳥」として蘇らせる必要があっただろう。


フランス人作品の核心について谷川俊太郎が語っています。

「王と鳥」公式サイトより
―:プレヴェール的な世界というと?

谷川:すごくリアルな細部と、とんでもないファンタジーみたいなものが混ざりあっちゃっていて。この映画でも王宮の地下に下層都市っていうのがでてきますよね。プレヴェールっていう人は民衆の中から詩を書いていた人だから、ああいうものがでてくるんだろうなと思って。しかし同時にすごくSF的なところもあってね、巨大なロボットなんかはとても現代的で、それが最後にすべてを破壊しちゃいますよね。すべてを破壊するっていうのもすごくプレヴェール的だなと思うんです。あれって自由と反抗みたいなものですよね。

あと、やっぱり台詞。王様がエレベーターに乗っているとき、王宮のいろんな階にどんなものがあるかを説明するところがあるじゃないですか。あのいろんな部屋の名付け方なんてね、まさにプレヴェールじゃなきゃ、なかなかあんなことはできないんじゃないかなって感じがしますよね。

―:「夏監獄・秋監獄・冬監獄」とか「大人と子供用徒刑場」とか、かなりシニカルなすごい名前が並んでいましたね。

谷川:フランス語で聞く言葉の響きがきっと音的にも面白いんだと思うんですよ。それから、鳥の雄弁がまたすごいでしょ(笑)。ライオン達を説得するところのロジックの持っていき方なんて、すごく面白い。

―:羊飼いの娘はライオンのために羊を守っていた。王が娘をさらったので羊は逃げ狼に食べられたというところですね。

谷川:あのレトリックっていうのはやっぱり詩的だね。プレヴェールは、初期は散文詩の相当長いものを書いていたらしいから―僕はむしろ短い詩の方がぴんと来るんですけど、日本語訳で読むとね。たぶんああいう雄弁っていうのもプレヴェールの特徴なんじゃないかなと思いましたね。


なお、高畑さんと「王と鳥」のつながりについては高畑勲の世界でも触れています。

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