文字の文化史(その3)

<文字の文化史(その3)>
初期の文字は粘土、木片、骨片、皮、布に書かれて最終的には紙に書かれた。
図書館で借りた「文字の文化史」であるが・・・・
金文、巻物のあたりについて、引き続き読み進めたので(その3)として紹介します。

まず、金文について見てみましょう。

<殷の金文>よりp41~42
 金文のもっとも初期のものは、第1章で取り上げた「絵文字」すなわち家紋一つだけを鋳込んだものである。殷の貴族たちは、神聖な銅器の最要所に鋳込んだ己が家紋のうちに、無限の誇りと家系の尊厳とを見出していたものらしい。
 食器は家族のめいめいにあてがわれるものであるが如く、神々の食器である銅器も、それぞれ使用する神さまが定まっていたらしく、その神の名が紋所の下に書き添えられるようになった。図の「父乙」「祖丁」「祖乙」などの文字が付け加わっているのは、その段階の銘文である。
 次には、いかめしい銅器に対して、そんな簡単な銘文だけで満足できなくなったと見えて、美しくて神聖な文字をいくつか書き添えるようになる。図は泉屋博古館所蔵の1銅器に見えるそういう銘文で、「コノ紋所ノ家デ、ヤ作リタル丁ノ日生レノ祖神ノタメノ銅器」ということである。
 もう1段階すすむと、その器を作ったいわれを書き添える。銅器を作るのは、戦勝とか領地をもらうとか、大事件を記念しての場合が通常だから、それは万世に伝えるに値いしたに違いない。

 ここで驚かされることは、流麗な線を多く使ったこれらの銘文と、ほとんどの筆画が鋭い直線より成る甲骨文とが、同時に存した文字であるという一事である。それは専ら材料の相違に帰するより考えようがない。甲骨文の方は、堅くてツルツルした亀の甲や獣骨の上に、しかも狭い空間に刻らなければならない。その内容は、他人にはむやみに見せられないもので、王と貞人とさえ読めればよく、なるべく字形なども省略し、何かの間違いで他人がウッカリ覗いても、読むことのできない符丁の如きものである方が、むしろ望ましかった。それに対して銘文の方は、万世の後まで子孫どもに、それを読ませて有難がらさなければならないものであった。実際に使われていた字よりも屈曲を多くして、装飾的効果をもたせたと考えることさえ可能である。鋳込んだ後こそ、銘文は堅い銅器の上にあるが、決して後から刻った字でなく、鋳造する前の鋳型の、そのまた原型に既にきざまれていたものである。鋳型になってから刻ることは、技術上あり得ない。原型だと、柔らかい粘土だから、ヘラ一丁で容易に作成できる。かくして、全く方向の違った2種の殷代文字をわれわれは眼にすることになったのである。


殷の金文については、NHKスペシャル「中国文明の謎」2でも放映されました。

金文というサイトより引用します。

金文より
金文

「鼎の軽重を問う」と言う故事がある。
鼎は王権の象徴であった。
殷代後半からだろうか、王族の厳粛な儀式を執り行うのに欠かせないのが鼎であった。
青銅器製法が何処からどのように伝わったのかは明らかではないが、殷を経て周代に世界に類を見ない青銅器文明が花開くのである。
青銅器に鋳込んだり彫ったりした文字を総称して金文と言う。


冊子の形の本ができる前は巻物であったが、この不便な形は数百年も続いたようです。
藤枝さんの生活感あふれる解説が、巻物に息吹きを与えてくれます。

<巻物の尊厳>よりp151~155
■木簡から巻子本へ
 「政治の文字」の章で申し上げたように、紙ができる以前の書物は、木簡に書かれたものであった。1枚の木簡ごとに1行の文章が書かれ、これを何十片、何百片と並べて紐で綴じたものである。用が済めば折りたたんで、紐でグルグル巻いておく。何時はじまったのか判らないほど遠い昔からずっと書物はこの形で伝えられていた。

 だが、この木簡の束の書物は、ずいぶんとかさばる。その上、1行ずつの札を綴じた形というのも、甚だ煩わしかったに違いない。紙が木簡にとって代わると、何行かを1枚の紙に書けるようになった。それを更に糊で継ぎ合わせることさえできる。長くなり過ぎるのを心配する必要はない。グルグル巻いておいて、端からひろげ、読みおわった所はまた巻いておくから、長編の書物でも、小さな机の上で処理できる。こうして、木簡よりは遥かに軽くて容量の小さな形式の書物―巻子本ができた。

 当時の人たちは、この新形式の書物の便利さを少々喜びすぎたようである。便利だと言っても、それは木簡に比べての話であって、1巻を読み終わるごとにもと通りに巻き返すのは、実はなかなか厄介である。1巻の途中の1ケ所だけを一寸見たいとなると、ことに不便である。
 こう言った不便さは、後段に説くように実は訳なく解決できる。巻物から実用的な本へ移るための工夫や手間はまことに一寸したものなのだが、実際にそういう形の本が使われだすのは8世紀あたりにもなってからのことである。物々しい巻物形式が、数百年もの間後生大事に守られていたことは脅威とも言える。
 書物とは巻物形のものと思いこまれていたから、役所の1件書類まで、当時は綴じこみでなく、貼りつないで巻物にして保存していた。平城京址からも、そういう巻物のための軸がたくさん発掘された。

■巻子本の遺品
 まことに不思議な話であるが、これほど永い間使われていた巻子本の遺品が、中国には殆どと言ってよいほど残ってはいなかった模様である。通常の書物の形が巻物でなくなるのは10~11世紀あたり、印刷した本が普及してからのことであるが、一旦新しい形ができ上がると、時代遅れの形をした書物は急速に姿を消してしまったらしい。近世のある文人が、ひとに見せられた巻子本の話を珍しそうに記した随筆を読んだ憶えがある。今日、新しい乗物がいろいろ現れると、駕籠や人力車など見たくてもなかなか見られないのと一寸似たところがある。

 しかし、日本には奈良時代に唐から伝わったもの、奈良で書かれたもの、合わせて1万巻以上の巻子本が保存せ
られていて、われわれには却って珍しくない。大部分は仏典であるが、外典もいくらかある。中には後世に折本に仕立て直されたものもかなりある。

 今世紀のはじめに中国甘粛省の奥にある敦煌の千仏洞の中から、数万巻の古写本を封蔵した密室が発見された。ちょうどその辺を通りかかったイギリスのスタイン、フランスのペリオの二人が、大量にそれを買って行った。そのことを知った清朝政府は、残っている中から漢文の写本をそっくり北京に運ばせた。漢文のほかに外国文(主としてチベット語)の写本もまた多量にあったのだが、そちらは問題にされなかった。10年後に民国の甘粛省政府が調べた所では、チベット文巻子本の束が94、夾板仏典が11束、1744斤もの古写本が、まだ現場に残っていたという。合わせて2000斤というと1トン以上の目方である。点数や枚数に換算の仕様もない。

 漢文写本の方も、北京にもって行ったものが全部ではなかった。日本の大谷探検隊、ロシアのオルデンブルグ、それぞれ少なからぬ写本を獲得した。スタインも1914年にまた敦煌へ来て、500点あまりの「とっておきの逸品」を手に入れた。
 以上の古写本は、それぞれの国の中央図書館、もしくは中央博物館に保管せられ、研究に供されている。しかし、その整理と研究は大戦や革命などのために大変手間どって、各コレクションの目録が出だしたのは近年になってからのことである。まだ完全には出揃ってはいないが、敦煌写本の全体について一応の見通しだけはつくようになった。また見通しのためには目録の類もさることながら、スタイン募集と北京募集と、それぞれ全体のマイクロフィルムが作られたことに負う所が多い。
 



【文字の文化史】
文字

藤枝晃著、岩波書店、1991年刊

<「BOOK」データベース>より
3500年前に溯る甲骨文・金石文。漢字の誕生は神をまつり、神託をきく儀式と深くかかわっていた。聖なる文字はどのような歴史を経て万人のものとなったのか。写本の素材や形態の変遷、木版・活版印刷の登場に伴う字体の変化を興味深く語る。図版102枚。

<読む前の大使寸評>
漢字、翻訳、通訳、印刷、書籍・・・大陸文化とのつきあいに欠かせないこれらのアイテムが興味深いわけです。

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