文字の文化史

<文字の文化史>
初期の文字は粘土、木片、骨片、皮、布に書かれて最終的には紙に書かれた。
図書館で借りた「文字の文化史」であるが・・・・
この本の書評を、どのジャンルに入れるか迷ったわけである。
歴史か、言語学か、森林か?・・・結果、森林に入れたのは紙への拘りが強い大使ならではなんでしょう。
だって現代では、紙の材料は圧倒的に木質系ではないか。
…このあたりが、森林にこだわる大使ワールドなんだろう♪


【文字の文化史】
文字

藤枝晃著、岩波書店、1991年刊

<「BOOK」データベース>より
3500年前に溯る甲骨文・金石文。漢字の誕生は神をまつり、神託をきく儀式と深くかかわっていた。聖なる文字はどのような歴史を経て万人のものとなったのか。写本の素材や形態の変遷、木版・活版印刷の登場に伴う字体の変化を興味深く語る。図版102枚。

<読む前の大使寸評>
漢字、翻訳、通訳、印刷、書籍・・・大陸文化とのつきあいに欠かせないこれらのアイテムが興味深いわけです。

rakuten文字の文化史


紙、印刷に注目して、関係するあたりを紹介します。
紙の遺品が最初に西域の砂漠から発見されたことが…
西域フェチの大使にとって興味をひくわけです。

<紙の出現>よりp133~138
■偉大なる発明
 いろいろ廻りみちをして、こんどでやっと紙の話になる。紙は紀元100年ごろに、蔡倫という宦官が発明したと言い伝えられている。それから二千年ちかい間、字を書く道具の方は、筆からペン、鉛筆、それに近ごろはマジック・インクやボールペンなど、いろいろ移り変わりがあっても、それらはすべて紙の上に書くために考え出された道具ばかりである。道具の方は、まだまだ新しいものが次々に現れ出そうな気配でありながら、紙の方は多少の質の違いはできるにしても、紙というものが使われなくなる時代が来るのは、まだまだ先のことに違いない。それどころか、文化の高さは紙の消費量によって示される、などと言う人さえある。してみると紙の発明は、人類文化の進捗の上で、まことに偉大な業績であったと言わねばならない。

 中国の古い記録によると、蔡倫が宮廷の用具製造所に勤めている間に紙を発明し、ふる麻を材料にして麻紙、木皮を材料にして穀紙、ふる魚網を材料にして網紙を作った、とある。それぞれの材料を搗き砕いてビスコース状にし、うすく拡げたあと、水分をとり去ると薄片ができる。これが紙であるが、そのようにすれば、絹や麻にじかに書くより遥かに書きやすい。この原理は今日まで少しも変わっていない。ただ、西方に伝わった当初は、麻でなく綿を材料にしたこと、近代になってふる布の変わりにパルプを使って大量生産が可能になったこと、などが進歩といえば進歩であるが、その代わりパルプを使った紙は質が落ちる。材料に、ふる布やふる網を使ったのは、搗き砕くときに、その方が新品より砕き易く、上質の製品が得られるからである。

■楼蘭文書
楼蘭

 木簡も遺物は多くないが、紙になるといっそう形がのこり難い。紙に書いた書類は、当事者には極めて大切なものであっても、ある時期がきて用済みになると、こんどはじゃまもの扱いされて、処分されることになる。ことさら処分しなくとも、紙は水や火に弱く、それにネズミや虫という大敵もあって、何十年、何百年もその形をのこすことは稀有のことである。日本の奈良朝時代の巻物や文書などが数千点も今日に伝えられているのは、世界の歴史における大きな脅威である。ところが、さきに木簡の項で触れた各国の中央アジア探検隊は、乾燥した内陸アジアの各地から、紙の遺品まで多量に発見して世の人を驚かせた。

 紙の遺品が発見せられた場所は、楼蘭、トルファン、敦煌などであるが、この中で、楼蘭の遺物群がもっとも時代が古く、西紀265年から330年にかけての日付けが見られる。
(中略)
 楼蘭の見棄てられた古城祉の傍らの、砂漠の中のゴミ捨て場の堆積の中から、漢字で書いた木簡や紙の遺品が、スエーデンのヘディン、イギリスのスタイン、それに日本の大谷と、各国の探検隊によって発見せられた。同じ楼蘭国内のニヤの遺跡からは、カロスティ字で書いた木簡が発見せられたが、こちらは湿気があったと見えて、紙は発見せられなかった。漢字の文書もカロスティ字のそれも、また紙の文書も木簡も、下限は330年あたりである。この時期に、楼蘭国の命運に何か重大な変化が起こったらしい。何れにせよ、この一群は現存する最古の紙であって、紙の発明からわずか160~225年あとのものである。

■木簡と紙の接点
 楼蘭の遺跡からは、木簡と紙との両用の文書が発見せられた。どちらにも、かなり多くのものに日付けがあるが、それで見ると、楼蘭の人々は紙も木簡も全く同時に使っていたことが知られる。日本の平城京遺跡からも、1961年いらい今日まで約2万点の木簡が発掘せられた。奈良時代も紙を使っていて、多くの経巻や、膨大な正倉院文書がのこされている。そのほかにも、西域の各地から9世紀のチベット語木簡が発見せられた。
 なぜ紙があるのに、木簡も使っていたか。これだけ多くの材料が揃うと答は容易である。紙が使われるようになってからの木簡は、数こそ多いが、内容は極めて単調である。それは、荷物の付け札、名札、通行証、役所からの呼び出し状、そのほかは習字か、らく書きである。少し込み入ったものとして、食料支給などの明細書があり、これは時には割り符形式になっていて、あらかじめ作られてあった同一内容の二片を照合した形跡を示す。こう見てくると、これらの木簡は付け札でなければ、持ち歩くもの、もしくは掛け札ということになる。言いかえれば、紙では都合の悪い用途には、もと通りの木簡が使われていた。紙の発明された後も、こうした使い分けをして、木簡は生命をもっていた。
 つい近年まで、鉄道荷物の付け札は木でないと受け付けてもらえなかったし、八百屋や魚屋の値札に経木を使っていたのは、その遺制である。形や寸法がかなり変わってしまったために、その木簡との結びつきが忘れられている。楼蘭段階では、後でもいうように、木簡も紙も1尺の長さであった。


ちょっと脇道にそれるけど、和紙については和紙と暮らすにまとめています。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック