漢字がつくった東アジア4

<漢字がつくった東アジア4>
「漢字がつくった東アジア」を読み進めています。
日本が最初に中華圏から独立したとする切り口が、ええでぇ♪

今はない渤海という国が大使にはエキゾティックなんですね。歴史上、日本とは友好的であったし、抗争も無かったようです。

<渤海の辿った道>p173~176
 それでは、独自の年号までもった渤海国とは、どのような歴史を辿ったのか。それは、あまり明らかではありません。なぜなら、渤海国自身によって書かれた歴史書が残っておらず、同時代の日本の『続日本紀』や、中国の『旧唐書』などから再現するしかないからです。
 926年、第15代の大イセンという国王が契丹の耶律阿保機に亡ぼされ、渤海国の歴史はここで終わります。したがって698年から926年までの230年ぐらいが渤海国の歴史ということになります。それは、日本でいえばおおよそ奈良時代から平安前期。政治的に独立した後、中国的文化を意識的に学び、擬似中国的な国家を形成っしつつ、平仮名(女手)の誕生によって、文化的独立に至る時代に相当します。
 靺鞨人の国家・渤海が、なぜ、日本や朝鮮のように安定した形態をとることがなかったかといえば、王を中心とするごく少数の官僚達は、漢詩・漢文に通じ、東アジアの政治的関係を理解していたとしても、圧倒的な数の民衆は、これとは無縁の無文字的空間にあったからであると考えられます。西にモンゴル、さらには突厥という遊牧の空間に接する靺鞨人は、東アジア漢字文明に半分だけ足を突っこんだにすぎなかったからです。 新羅が立ったのは676年で、その20年後には渤海国が立ち、ある意味でここに朝鮮半島での南北時代、北と南という二つの国が立つという構造が生じました。
 さて、ここで見ていただきたいのは、698年から926年ということは、律令日本時代と重なるという事実です。日本は710年に奈良朝に入ります。794年には奈良から平安に遷都して、894年には遣唐使を廃止しています。

 渤海国ができたころに日本は生まれているという言い方も可能です。先ほど見たように日本は663年に白村江で敗北し、そして建国する。渤海国の建国は698年ですから30年ぐらい違いますがほぼ対応しています。また、ちょうど渤海国が亡びたあたりで日本の方も大きく変貌しています。
 渤海国は926年に滅亡してしまったのだから、この時期依然として平安時代がつづいている日本とはまったく違うのではないかと思われるかもしれません。ところがここで、じつは日本も、新しい日本が立ったのです。何によって立ったかというと、このあたりに完璧な女手(=平仮名)の誕生があります。渤海国がこのころ滅亡したように、じつはそれまでの日本とこれ以降の日本とは別の日本なのです。両国の歴史は見事に呼応しているわけです。
 従来の歴史観では、(追って記入)


wikipediaに靺鞨、渤海の位置づけが載っているが・・・ま~民族勃興史を見るようで感慨を覚えます。

wikipedia靺鞨より
靺鞨靺鞨(7世紀後半)

渤海渤海(8世紀、9世紀頃)

 靺鞨(まつかつ)は、中国の隋唐時代に中国東北部(現在のロシア連邦・沿海地方)に存在した農耕漁労民族。南北朝時代における「勿吉(もつきつ)」の表記が変化したものであり、粛慎,挹婁の末裔である。16部あったが、後に高句麗遺民と共に渤海国を建国した南の粟末部と、後に女真族となって金朝,清朝を建国した北の黒水部の2つが主要な部族であった。


「中国からの独立」という白川さんの独特な切り口を拝聴してみましょう。

<唐の滅亡と東アジアの文化的独立>p188~190
 こうしたことを総合的に考えると、900年から1000年代のところで、東アジアの各地方は文化的に独立することがわかります。この900年から1000年代に越南でも独立の気運が起ってきます。
 一方、朝鮮半島は、北では926年に渤海が亡び、南では919年に新羅から高麗に代わっています。ここでも文化的な独立めいた動きが生じます。
 日本は、国が亡ぶような大きな政治的な変革は見られないものの、それに匹敵するような文化的な革命と断絶がこの時期に起きます。それは女手の成立です。再三繰り返すように、女手が誕生したことにより日本は文化的な独立を遂げますが、それがちょうど越南が中国から離れて独立する時期と重なるのです。
 ここで非常に興味深い原理がひとつ抽出できます。それは、「東アジア漢字文明圏における独立は、自主的に中国風の体制を整え、漢字文明・文化を推進する」ということです。
 一般的に、独立するという場合には、支配者の束縛から離れて自分たちのものを打ち立てることを意味しますが、東アジアで自分たちのものを打ち立てようとする場合には、かならずいちど政治的にも文化的にも中国化する必用があります。まず中国の政治制度を学び、中国の文化を積極的に取り入れ、あたかも中国と同じような政治的・文化的形態になる。その経験を経たあとに、はじめて文化的な独立が成立します。これが東アジア漢字文明圏における独立の条件です。
 非常に矛盾に満ちていますが、わかりやすくいえば、京都と奈良の違いです。あるいは、京都の町でいえば、御所と禅院の違いです。奈良とはいったい何かというと、あれは中国です。中国のものをどんどん取り入れて、中国と瓜二つの姿になることを目指したのです。この逆説的な動きが、日本が白村江の戦いで敗れ、中国から独立したあとに起きます。つまり自主的に中国文化を吸収することによって独立するしかないのです。
 それほど中華の文明というもの、知識学問というもの、政治制度というものが圧倒的に大きく、水圧が高いのです。それを自分のものとして取り入れなければ中国からの相対的な独立はありえないのです。
 たとえば奈良時代の写経。写経によって中国の文字を知る、中国の文を知る、中国の知識を知ることを徹底することによって独立が果たされたのです。
(中略)
 越南でも、脱中国化を達成して独立しようと思えば中国化しなければいけない。つまり中国化することによって脱中国化するのです。日本の場合もそうですし、朝鮮の場合もそうです。これが漢字文明圏における独特な独立の形態だと思います。

 拙著『日本書史』で詳しく述べていますが、私は900年を日本史におけるひとつの分水嶺と考えてもよい大きな区分と考えています。900年までを、奈良時代あるいは空海などが活躍する平安初期を含めて「擬似中国時代」と考えます。この時代の文化は、中国から独立していちばん最初にやってくる姿をしています。東アジアの国が政治的に独立したあっとには、中国のごとき姿をする時代がかならずやってくるのです。それを経た後にやがて「違いのわかる大人」になることがあります。日本でいえば、女手をつくることによって、和歌と和文の表現力を手に入れ、擬似中国段階を脱して日本化することになります。
 同様の試みが、東アジアではやはり文字をめぐって起ります。日本では女手でした。朝鮮ではハングルをめぐって起ります。そして越南ではチェーノム(字喃)という、いわゆる越南文字をつくることを通じて起ってきます。この「喃」の字がまさにチェーノムです。「口」扁が表音のための借用字であることを表し、「越南」の「ノム(南)」という音を合わせてつくられた越南文字です。


中国に組み込まれながら、一貫して反抗的だったヴェトナムの文化、王制を見てみましょう。辺境としての悲哀は朝鮮半島より大きかったようですね。
チェノムチェノム

<朝鮮、越南、日本の支配体制>p199~201
 江戸時代までは一貫して、朝鮮半島は日本に大陸のいろいろな文化を伝えるというかたちで、ある意味での師匠役をしてきたわけです。けれども、半島側には豊臣秀吉の朝鮮侵攻に象徴されるような、とんでもないことをする、わけのわからない要素をもっている島だという認識もある。そういうなかで、朝鮮半島の、大陸と孤島のあいだにあるという中間の意識は、単に半島意識ということだけではなく、孤島との関わりを絶えず意識させられてきたと考えられます。
 元の侵攻に対して、越南が選んだ対応は反抗でした。文化的民族主義としてチェーノムはつくられました。しかし先ほどいったように、大陸を北といい自分たちを南というように、基本的に自分たちを大陸と同格に見ようという意識が支配層にあります。
 なぜか。それは越南が中国だからです。とはいえ、体制に組み込まれて、生活しているだけの被支配層は別です。支配する層は、要するに中国です。だから大陸の南朝なのっです。まさに南朝を建てるというような意識から越南は生まれてきたのです。チェーノムが基本的には漢字と同じ構造の亜漢字であり、また(それゆえ)越南語が中国語と同じ単音節孤立語でありつづけていることにも触れておきましょう。

 さらに興味深いのは、朝鮮、日本、越南の三つの国で支配体制が異なることです。朝鮮は基本的に「王」、つまり王制です。この王制というのは、再三述べているとおり、皇帝のもとにある王制です。要するに冊封された王制です。あくまで「自分たちのところには王しかいない」という考え方です。皇帝がいるとは考えないし、また考えられもしないのです。
 それに対して、日本の場合は「皇帝」です。皇帝とは名乗らないけれども、王とも名乗らずに、その中間的な概念、もしくは模擬皇帝概念として天皇をつくる。天皇制が強化されるのは近代以降です。しかも日本史の過半を実際的に支配したのは、古代には摂政や関白、あるいは院、そして中世、近世は征夷大将軍、つまり将軍でした。わかりやすくいえば、日本の場合、皇帝でも王でもない天皇という制度になります。

 ところが越南の場合は異なります。対中国的には王でありながら国内的には皇帝と称するのです。実際問題としては中国の皇帝と冊封関係にあり、したがって王、あるいはもっと貶められて郡王ぐらいのこともあるのですけども、王でありながら国内的には皇帝と称するのです。したがって越南がいちばん中国的なのです。中国でありながら中国とは違うという、むろん朝鮮あるいは日本とはまた違った姿をとるのです。
 話は少し脱線しますが、これは絶妙かなと思うのは、越南を含む半島をインドシナ半島と呼ぶことです。すなわちインドの文明と中国の文明がちょうどそこで交差し、共存している半島です。中国大陸に発する漢字文明は東海岸の方から越南へと南下してきますが、西の方からはインドの文明が押し寄せてくる。それは文字が、越南以外のところでは、アルファベットでもなく漢字でもない、いわゆるサンスクリット系の文字が基本的に使われていることと関連しています。
 越南が独立するときに、「漢唐はわが帝国にして、孔孟はわが祖師なり」という考え方が払拭すべき意識として語られました。この考え方を払拭しなければ越南の独立はありえないというのが越南の独立のときの考え方です。それほど越南の知識人のあいだには、中国大陸の文化・文明が自分たちの礎であるという考え方が根強くあったのです。


wikipediaチュノムによれば、一般のパソコンでも大多数のチュノムを表示、印字することが可能となっているそうです。
ベトナム語のローマ字表記化についてはwikipediaクオック・グーに詳しいが・・・1945年独立を期に、中華のしがらみを絶ったのでしょうか?(クオック・グーとは、もちろん国語ですね)


【漢字がつくった東アジア】
アジア

石川九楊著、筑摩書房、2007年刊

<「BOOK」データベースより>
始皇帝が文字を統一したとき、漢字が東アジアの歴史を照らし始め、漢字文明圏が決定づけられる。やがて大陸(中国)の変動に呼応する形で、平仮名(日本)、ハングル(朝鮮)、チューノム(越南)が生まれ、それぞれの文化の枠組みが形成されてゆく。その延長上に現代を位置づけなおすとき、二十一世紀が目指すべき方向が見えてくる…。鬼才の書家が巨視的な観点から歴史をとらえなおし、国民国家を所与とする世界観を超え、読者を精神の高みへと導く知的興奮に満ちた一冊。

<大使寸評>
漢字の生い立ち、漢字文化圏に関する本には、つい手が出てしまうのです。
日本が最初に中華圏から独立したとする切り口が、ええでぇ♪

Amazon漢字がつくった東アジア


中韓とは歴史認識、領土問題でメンツをかけてにらみ合っているが、“我々の文字”という視点を維持することは、かなり能天気のような気がしないでもない。
だけど、ここまで広い視点を持っておく必要性は、より深まっているのでしょうね。

漢字がつくった東アジア1
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