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<<   作成日時 : 2018/03/10 01:41   >>

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<北斎あれこれR2>
北斎を描くアニメ映画『百日紅〜Miss HOKUSAI〜』が近日公開されるし、この際、北斎をきわめておくか、と思いたったわけです。

ということで、北斎についていろいろ集めてみます。

・サライ(2017年11月号)
・北斎 宇宙をデザインす
・ジャポニスム
・百日紅〜Miss HOKUSAI〜
・カラー版 北斎
・北斎漫画を読む
・フェルメールの青、北斎の青
・版画のジャポニスム
・足利行道山くものかけはし


富岳甲州石班沢

R2:『サライ(2017年11月号)』を追記


<『サライ(2017年11月号)』1>
図書館で『サライ(2017年11月号)』という雑誌を、手にしたのです。
北斎の大特集となっているが、この雑誌を見落としていたのは不覚であった・・・
ということで、即、借りたわけでおます。

北斎の後半人生が概観されているので、見てみましょう。
p36〜37
<齢60を超えて華開いたその画境>
 北斎の代表作『富岳三十六景』の出版が始まったのは、天保元年(1830)頃。このとき、すでに71歳に達していた。しかも驚くべきことに、このあと続けざまに『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』といった浮世絵の歴史に残る傑作を発表。さらに80歳を超えてから、細密な肉筆画に挑んだ。

 まさに生気と創作欲の塊。人生の終盤にさしかかってなお、絵にかける情熱は高まるばかりだった。75歳のときに出版した絵手本『富岳百景』に本人が寄せた文章でも、次のように述べている。
「70歳以前の作品は取るに足らないものだった。73歳で生物の骨格や草木の出生を悟った。ゆえに86歳でますます成長し、90歳で絵の奥意を極め、100歳で神妙の域に達するだろう」

 その言葉どおりに、作品の深みを増していったのだから恐れいる。といって“遅咲き”の絵師だったわけではない。『富岳三十六景』を発表した頃、すでに北斎の名は広く知られていた。それまでの歩みを振り返ってみよう。

 北斎は、宝暦10年(1760)、現在の東京都墨田区に位置する江戸本所割下水に生れた。幼い頃から絵を描くことが好きで、19歳で役者絵や美人画を得意とする浮世絵師・葛飾春章に弟子入り。翌年には自作を発表している。

 ところが北斎は勝川派の一絵師にとどまる器ではなかった。35歳頃に同派を離れ、孤高の道を歩む。以後は江戸時代の絵画の本流ともいえる狩野派や、装飾的な琳派の絵師・俵屋宋理に学び、しばらく自身も宋理を名乗る。さらには中国や西洋の絵画を貪欲に吸収した。

<芸術と信仰が一体化する>
 北斎は文人との交わりも活発だった。40代以降は、主として物語に挿絵をつけた「読本」の世界で活躍し、人気絵師となる。
 50代には全国に弟子も増えて、彼らの手ほどきとなるように出版したのが、絵手本の『北斎漫画』である。

 だが人生は順風満帆とばかりにはいかない。60代の北斎は、妻の死や孫の放蕩に悩まされる。たび重なる苦難に打ち勝って、絵師としての存在感を改めて見せつけたのが『富岳三十六景』だった。

 富士山は、北斎にとって「超絶なるものの象徴」だったと言われる。その後の肉筆画で、龍や鳳凰などの霊獣瑞鳥を好んで主題としたのも、人智を超えた存在への憧れがあったようだ。晩年の北斎にとって絵を描くこと自体が、崇高なるものへの信仰に近かった。

 80代の半ばには、知人の招きに応じて、江戸から遠く離れた信州の小布施まで何度か旅をしている。当地で力強い肉筆画を何作も描くが、これもまた飽くなき探究心の賜物だったろう。

 そんな北斎も嘉永2年(1849)、90歳でついに息を引き取る。亡くなる直前に周囲の者に、こう告げたと伝わっている。
「天があと5年命をくれたなら、真正の絵師になれただろう」

 生涯に名前を変えること約30回、転居は93回に及んだといわれる。決してひと所に立ち止まることのない姿勢こそ、北斎の旺盛な想像力の源だったかもしれない。


【サライ(2017年11月号)】
サライ

雑誌、小学館、2017年刊

<商品説明>より
大特集、世界が仰天した「画狂老人」の90年、この秋、大阪・東京で大規模展覧会 北斎を見よ。特集 国家創成の舞台を歩く奈良「古代史」の旅 特別付録2018年度版スケジュール手帳

<読む前の大使寸評>
北斎の大特集となっているが、この雑誌を見落としていたのは不覚であった・・・
ということで、即、借りたわけでおます。

rakutenサライ(2017年11月号)




<北斎 宇宙をデザインす1>
図書館で『北斎 宇宙をデザインす』という本を、手にしたのです。
ぱらぱらとめくると、モノクロではあるが画像の多いのがええでぇ。その豊富な画像で例証する方針がいいではないか。


【北斎 宇宙をデザインす】
北斎

西沢裕子著、農山漁村文化協会、2006年刊

<「BOOK」データベース>より
【目次】
修業時代/『北斎漫画』の世界/北斎のイマジネーション/デザイナー・北斎/北斎の「富士」/森羅万象を自在に描く/真正の画工となるを得へし

<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくると、モノクロではあるが画像の多いのがええでぇ。その豊富な画像で例証する方針がいいではないか。

rakuten北斎 宇宙をデザインす





【百日紅〜Miss HOKUSAI〜】
お栄

原恵一監督、2015年制作

<movie.walker作品情報>より
江戸時代に当時の風俗をとらえ、庶民から愛された“浮世絵”。浮世絵に生涯を捧げ、3万点を超える作品を発表した浮世絵師・葛飾北斎とその娘・お栄と、江戸に生きる人々との交流を描いた、杉浦日向子の同名漫画を『カラフル』の原恵一監督がアニメーション映画化した人間ドラマ。主人公・お栄役で杏が長編アニメ作品の声優に初挑戦。

<観る前の大使寸評>
アナ雪と比べると、やや大人向けのアニメーション映画であり、アナ雪のように大ヒットするか疑問だが・・・・
でも、杉浦日向子さんの原作を作品化するところが、クールではないか♪


movie.walker百日紅〜Miss HOKUSAI〜
百日紅〜Miss HOKUSAI〜公式サイト



【カラー版 北斎】
北斎

大久保純一著、岩波書店、2012年刊

<「BOOK」データベース>より
「画狂人」と称した葛飾北斎(一七六〇〜一八四九)は、生涯自らの到達点に満足することなく、画業に専心し、多彩な作品を遺した。初期の役者絵から、美人画、摺物、読本挿絵、絵手本(北斎漫画)、風景画、花鳥画、そして晩年の肉筆画まで、傑作・代表作六九点を収録し、その画業を江戸絵画史の中に位置づけながら、読み解く。

<大使寸評>
北斎を描くアニメ映画百日紅〜Miss HOKUSAI〜が近日公開されるし、この際、北斎をきわめておくか、と思いたったわけです。

ところで、図書館でこの本を借りるのは2度目であることが、後でわかったのです(イカン、イカン)

rakutenカラー版 北斎
カラー版 北斎byドングリ



【北斎漫画を読む】
北斎

有泉豊明著、 里文出版、2010年刊

<「BOOK」データベース>より
知るほどに面白い!江戸の話題作。マンガ(漫画)の名付け親、北斎が残した傑作に迫る。

<大使寸評>
北斎といえば『富岳三十六景』の知名度が高いが、『北斎漫画』も当時の江戸で人気を博したそうです。
庶民の生活、好み、滑稽などを描いた画の数は膨大です。この本では目ぼしいものを取り上げて、楽しい読み物に仕立てています。

Amazon北斎漫画を読む



福岡伸一著『やわらかな生命』という本から「フェルメールの青、北斎の青」を紹介します。

<フェルメールの青、北斎の青>よりp148〜150
 そんな青が人の心を捉えることをフェルメールは正確に気付いていた。彼は、故郷デルフトの高く澄んだ青空の光を描き出すため、スマルトを使った。スマルトとは細かく砕かれたガラスの透明な粉末である。『デルフト眺望』。

デルフトデルフト眺望

 しかしながら、かのフェルメールですらどうしてもかなわぬ夢があった。それは青を、青が本来、この世界のうちに存在しているように描くこと。つまり青色を、水の中に、あるいは空気の中に分散し、かつ、溶かしこんで、連続したグラディエーションをもった自然な濃度勾配として表現すること。

 スマルトもラピスラズリも鉱物の粗い粒子だった。スマルトはコバルト、ラピスラズリはアルミニウムとシリカの結晶。鉱物粒子は溶かすことも伸ばすこともできない。油でといてキャンバスの上に貼りつけることしかかなわなかった。
 青を遠ざけ、青を近づけること。青を揺らし、青をにじませ、青で勾配とうねりを作り出すこと。そのためには実に百年以上の時間が必要だった。

 これがフェルメールの青と北斎の青とのあいだにもあるものである。
 ベロ藍、またの名をプルシアンブルー。北斎が選んだ青は、鉄イオンの錯体(フェロシアン化第二鉄)だった。この類まれな物質は、スマルトのコバルト、ラピスラズリのアルミニウムと同様、金属原子の結晶がもたらす青の系譜を継ぐものである。しかしベロ藍は、スマルトやラピスラズリよりずっと細かい粒子であり、極めてなめらかに水の中に分散させることができた。北斎はこの青を見逃さなかった。

 フェルメールのはたせぬ夢をついに実現した画家。それが葛飾北斎だった。止まっていたフェルメール・ブルーを、世界ではじめて動かしてみせたのである。



【版画のジャポニスム】
版画

コルタ・アイヴス著、木魂社、1988年刊

<内容説明>より
事実上、19世紀後半のフランスにおけるすべての画家は、浮世絵の思想を蒙ったのである。
画家の想像力を解放し、世俗的な主題に光をあてた運動としてのフランス印象派と後期印象派に対する考察を進めていくと、19世紀のフランスの版画家と浮世絵師との深い関係が明らかになる。
浮世絵師もまた彼らより一世紀早く、同じ目標に向かって苦闘していたのである。

<読む前の大使寸評>
ロートレックのポスターには、浮世絵のテイストが顕著であり、ゴッホは浮世絵を模写したりしていますね。
また、村上隆の提唱するスーパーフラットの原型が当時のジャポニスムにも感じられます。
言ってみれば、当時は第一次「クールジャパン」のような感があるのです。

aishoren版画のジャポニスム


『熱闘!日本美術史』という本の中で、辻惟雄、村上隆のお二人が北斎の「足利行道山くものかけはし」を題材にしてバトルを繰り広げていました。

<絵合せ17番・村上春樹ほか:辻惟雄>よりp118〜119
かけはし1
 ずいぶん長い間、文芸書の類から遠ざかっている。が、村上春樹だけは例外だ。
 『ノルウェイの森』を読んだのが最初で、それから『ダンス・ダンス・ダンス』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』…。ほかに何を読んだか忘れたが、これだけ読めば、私も、世界中にゴマンといる村上春樹ファンの一人といってもよいだろう。
(中略)

 以前一度、ほんのちらりと、氏を見かけたことがある。たしかな記憶ではないが、1995年、『ねじまき鳥クロニクル』が出て評判になったころ、場所は京都の国際日本文化研究センター。ちなみに氏がリスペクトする故河合隼雄氏は、以前同センターの所長だった。
 大勢に囲まれた人気作家の姿をのぞき見て、この人は相手の顔を見ながら物をいうタイプではなさそうだ、と思った。考え事をしているのか、言葉を反芻しているのか、空想に浸っているのか、相手の話に受け答えしながら、心はここにあらず、に見えた。なぜか私はそのとき、野間宏のことを思い出した。戦後まもなく、ブリューゲルの絵からの連想を長々とつづって有名な『暗い絵』を書いた人。遥か以前、この人が「アカハタ」に頼まれて、展覧会場で私の友人の画家にインタビューしていた、そのときの顔が浮かんだのである。相手に質問しながら、一方で自身の心の中の誰かと絶えず対話している牛のような顔つき。

“風のように自由”な村上の文体と、限りなく重い野間の文体とは、あまりにもかけ離れすぎている。二人を連想のまな板にのせる私のやり方は、ただの素人の思い付きかもしれない。だが両者の間には、たしかに共通するものがあると私は思う。それは、文章がイメージを喚起する力の強さ、とでもいうべきか。

かけはし2
2つの月の出る世界、高速道路くものかけはし:村上隆


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