カツラの葉っぱ 大好き!

アクセスカウンタ

zoom RSS 『日本語のこころ』1

<<   作成日時 : 2018/03/05 07:48   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

<『日本語のこころ』1>
図書館で『日本語のこころ』という本を、手にしたのです。
ぱらぱらとめくってみると・・・日本語関連ももちろんで、なかなか読みどころの多いエッセイ集になっています。



【日本語のこころ】
日本語

日本エッセイスト・クラブ編、文藝春秋、2000年刊

<「BOOK」データベース>より
非論理的にみえる日本語の表現にこめられた日本人特有の心づかいを解き明かす表題作をはじめエッセイの楽しみ満載の珠玉の61篇。

<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくってみると・・・日本語関連ももちろんで、なかなか読みどころの多いエッセイ集になっています。

rakuten日本語のこころ ベスト・エッセイ集00年版

高粱満州の高粱畑

このところ旧満州が大使のミニブームなんですが・・・
宮尾登美子さんの旧満州の思い出を見てみましょう。
p87〜90
<飲馬河の米:宮尾登美子> 
 この秋、9月26日の朝、私が下り立った旧満州国吉林省九台県飲馬河は、いまから53年前、私どもが襲撃されたあの9月8日の日と同じく雲ひとつなく空晴れわたり、吹く風はさわやかだった。

 昔、ここは無人の寒駅だったのに、いまはコンクリートの建物に変わり、駅の周辺には15、6戸の人家も見える。

 昭和21年に、私どもが引揚列車に乗ってこの地を去って以来、中国との国交回復が成るや、ずい分各方面から再訪がすすめられたが、いつも決心を固めようとするたび、妨げとなるのはこの地で襲撃された記憶ばかり、その恐怖からずるずると計画を先延ばししているうち、とうとう半世紀以上も経ってしまったのである。

 長い年月を経たからこそ恐怖の経験は風化されるかといえばさにあらず、汽車が飲馬河駅に近づくにつれ、私は息苦しいまでに緊張が高まり、そして駅舎のうしろにある昔ながらの給水塔を仰いだとたん、まるで噴き上げるように涙が溢れてきたのだった。

 私がこの地に住んだのはまだ18歳のころ、当時は何も判らず、小学校教師だった夫に従い、ひたすらお国のため、生後50日の長女をおぶっての渡満だったのである。

 駅舎を出、昔のようにもんぺをはき、付近を歩いてみると、前にはどこも40人ほどの大家族だった住民たちはいま夫婦単位で分かれ、小さな家が増えていることを除けば何もかも昔のまま。
 水たまりのような泥の池で、以前と同じくあひるを飼っているし、暖房はなおオンドルで、燃料は農作物の根っこをかまどで焚いている。

 雨の降ったあとの泥濘の凸凹はジープも通れないほどで、そして家畜のものか人間のものか、糞は至るところに落ちている。まだ露天の井戸もあり、水を汲む見馴れた柳の籠もそのままあった。そしてこのなつかしい風景のなかで、私どもの住んでいた宿舎や小学校なども、目印の大きな柳の木こそないものの、ほぼこの辺りだと掴むことができたのである。

 50年何も変わらぬ、というのは驚嘆に値いすることだが、反対に大いに変わっていてこれも驚嘆したこともいくつかあった。
 そのひとつは、物見高く集まってくる村の人々の表情がいとも柔和に物腰もとてもやさしくなっていたこと。この人たちに取巻かれていると、私はあの襲撃の日の恐怖もすっかり遠のき、そしてのんびりと、時間の流れるのさえ忘れ去っていたのだった。
(中略)

 そして私は、駅舎の裏に立って見渡したとき、視界の限り黄金の波のうねっている光景に驚いたが、近づいてみるとこれが全部、陸稲のみのりの穂なのであった。
 元来、満州には米は作れず、地のある限り高粱(こうりゃん)を植えていたもので、この高粱はかつて人間や家畜の飼料にするばかりでなく、燃料として貴重な資源だった。

 それに、春播いた種は夏ごろ人の背丈以上も伸び、この畑のなかに一旦逃げ込めば容易に捜し出せぬとあって、不気味な隠れ場所にもなり、高粱の伸びるころが匪賊の跳梁跋扈の季節だと恐れられていたことがある。

 そういえば、今度の旅で大連から瀋陽を経て長春へと陸路を車や列車で入ってきたが、その沿道で高粱の栽培を見かけることはほとんどなかった。
 
 大ていが代わってとうもろこしだったが、ここ飲馬河だけは陸稲を作っていたのである。
 しかも、黄金一色のなかに黒い点々が見え、それらはすべて、天へ続くほど広大なこの陸稲の畑を、日本の昔のやりかたと同じく一株一株、鎌で刈っているのだった。

 私はこの風景を見たとき、深い感慨をおぼえた。
 満州に何故稲が作れないかといえば、稲は水がなければ栽培できず、水の乏しい満州ではまず不可能であうのを、改良研究して水の要らない陸稲栽培に成功したのは、日本の開拓団のみなさんだと聞いていたからである。

 これについては、この技術を伝えたのは朝鮮人移民であると主張する人もいるが、私がこの地に住んでいたとき、開拓団の人たちが日本から持ってきた籾を播いて陸稲を作っていたのを知っている。それまで穀物といえば高粱かとうもろこし、一部で小麦だけだった土地の人が、陸稲栽培に大いに興味を抱いたのは当然のことであろう。

 終戦後の引揚げで、満州に日本の農民は一人もいなくなってしまったが、技術だけは土地の人に伝えられ、いま飲馬河は豊かにたっぷりと日本の米を実らせている。

 聞けばいまや飲馬河米というのは有名ブランドとなっており、高値でよく売れるという。
 昼どきになり、昔の隣人王さんの家に立寄って私はこの飲馬河米を茶碗に一杯、ごちそうになったが、これはなかなかのもの、いわゆる日本で食べられる外米ではなく、あくまでも日本の米だった。




テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
『日本語のこころ』1 カツラの葉っぱ 大好き!/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる