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zoom RSS 『稲のアジア史1』1

<<   作成日時 : 2018/01/14 08:35   >>

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<『稲のアジア史1』1>
図書館で『稲のアジア史1』という本を、手にしたのです。
ナショナリストの大使としては、稲作の伝来ルートが気になるのでこの本を借りたのです。
要するに、陸稲の「海上の道」伝来の可能性に賭けて、朝鮮からの伝来説を否定したいのです。


【稲のアジア史1】
s稲

渡部忠世×福井捷朗著、小学館、1997年刊

<出版社>より
日本文化の基層を形成する「稲」の問題をアジア稲作文化圏の視野から、生態、歴史、技術を通して解明。21世紀の日本の「稲」「稲作」を考えるうえで、大いなる示唆と指針にを与える基本書である。

<読む前の大使寸評>
ナショナリストの大使としては、稲作の伝来ルートが気になるのでこの本を借りたのです。
要するに、陸稲の「海上の道」伝来の可能性に賭けて、朝鮮からの伝来説を否定したいのです。

amazon稲のアジア史1

イネ


「日本の稲作」について、見てみましょう。
p132〜136
<日本の稲作と土:久馬一剛> 
■稲作の適地とはいえない風土 
 わが国は「」といわれ、古い昔から圧倒的に稲作に稲作に依存してきたことが明らかであって、モンスーン・アジアの稲作圏の中に位置づけられることは何の疑いもない。しかしここで、あらためてその立地条件について考えてみることにしよう。

 この章では、雨季の降水の集中と広大な低地の存在とが稲作圏の成立条件であると繰り返しいってきたが、はたしてわが国はその条件をみたしているのであろうか。

 わが国にもたしかにモンスーンの雨季に相当するような梅雨があるが、それはたかだか1ヵ月しか続かず、稲作の適期である盛夏の時期にはむしろ太平洋高気圧に覆われて水不足気味となる。それを救うのが台風のもたらす雨であるが、これを勘定に入れても、平均的な降水のパターンをみると、わが国の大部分では、夏季に自然に湛水が起こるような雨は降らない。つまり天水稲作は不可能なのである。

 それではこの雨を受けて自然に長期の氾濫が起こるような低湿地の面積は広いのだろうか。わが国には沖積平野が全面積の13%ぐらいあるとされ、これは農耕に適した平地面積のほぼ半ばに上るのであるが、一つ一つの平野の規模は小さく、かつこれらの平野が川床の勾配の急な河川によって養われているために、氾濫も急なあら、排水も早い。熱帯アジアの平野のように、ゆっくりと氾濫し、何ヶ月もどっぷりと水を湛えているのとはまったく趣を異にする。

 わが国では氾濫は災厄でこそあれ、自然の恵みなどでは決してない。したがって自然の湛水を利用して稲を作ることのできる面積もきわめて限られている。

 このように気候からみても、地形からみても、稲作が広い面積にわたって自然に成立するような条件はなかったと思われる。こんな所でなぜこれだけ稲作が圧倒的な重さを持つようになったのであろうか。
(中略)

 ここに述べた二つの条件に目をつけたのが、稲作を文化の一つの要素としてもってきた渡来民ではなかったろうか。彼らは、まず自然に稲が作れるような小面積の低湿地から利用を始めたのであろうが、そういう土地がなくなるにつれ、やがて小さな川を制御し、あるいは、溜池を掘って水源を作り、小規模な灌漑を展開をしていったものと思われる。

■稲作に固執した原因 
 しかしそれにしても、土地の面積に制約がなかった時期に、人々を駆って、苦しい土木事業をしてまで、灌漑稲作に向かわしめたものは何であったろうか。雨の分布の良い、つまり年間に極端に乾季雨季の差がないわが国では、人口の少なかった時代なら、畑作によってでも十分な食料を得ることができたはずではないか。そしてそのほうが、川を制御し、灌漑水路を掘り、といった土木事業を前提とした稲作よりも容易な選択であったように思えるのである。

 この疑問に対する答えは、わが国の畑の土に求められるように思う。わが国で畑となる土地は、中部山岳地帯以北の東北日本では圧倒的に「黒ボク」が多く、東海地方以西のいわゆる西南日本には、黒ボクとともに丘陵や段丘の赤黄色味の強い土壌が多い。黒ボクについては先に少しふれたが、火山灰由来の特異な土で、その名に示されているように真っ黒な有機物を多量に含み、強酸性でアルミニウムがリン酸と安定な化合物を作り、リン酸の植物による吸収を強く阻害する。
(中略)

 現在でこそ、石灰を施用して酸性を矯正し、リン酸をはじめ肥料を多用することによって、これらの土の上でも永続的な畑作を営むことが可能になっているが、石灰も肥料も無かった時代に黒ボクや赤黄色土の上で畑を作ることはきわめて困難であったと思われる。ただ一つ考えられるのは、焼畑である。焼畑で森林を焼いて大量の木灰を土に環せば、リン酸も塩基類も短期的には土の中に豊富になるから畑作も可能であったろう。しかし3年も使えば土の生産力は大きく低下したであろうし、その段階で放棄したとしても、黒ボク・赤黄色土の両方の土地とも容易には再びりっぱな森林に環らなかったのではないかと思われる。

 こういうわが国の土壌条件の特異性に起因する畑作の困難さを考えると、土地に手を加えてまで稲作に固執した理由がわかるように思うのである。そして、このようなわが国における稲作受容のプロセスは、モンスーン・アジアの稲作圏の中でも特異なものではなかったろうか。この発端における特異性は、その後の稲作の展開にも特異な性格を与えているように思う。

■自然を克服した稲作技術
 熱帯アジアの稲作のように、圧倒的に大きい自然に対する適応として展開してきた稲作と違って、わが国の稲作は自然に手を加え、灌漑をすることによって、はじめて可能になったものである。したがって時代とともに技術が進歩すると、それに伴って自然への働きかけ方が変わり、ひいては稲作も変わらざるをえなかったろう。つまり、技術の進歩が稲作の進歩を促すように働き続けて今日に至ったというように考えることができる。

 熱帯アジアの稲作は、相手となる自然があまりにも大きく、またその自然にあまりにも見事に適応してきたために、少々の技術の進歩では、この適応の形を動かしえなかったのではないであろうか。そしてこの事情は今日でもあまり変わっていないように思える。わが国の土の特異性が、今日わが国と熱帯アジアの稲作にみられる大きな違いを生み出した原因の一つだといったらいいすぎであろうか。


ウーム 久馬さんは土壌に着目し、日本では畑作の困難さ、灌漑するに足る降雨から水稲に執着したと説いているが…周りに凶暴な遊牧民が居なかったことなども条件となるかも?

なお水稲は、中国の江南辺りから朝鮮半島を経ずして直に伝来した説が有力のようです。そのあたりは『イネが語る日本と中国』3に詳しいので見てみましょう。

日本の水田稲作について、佐藤洋一郎さんが次のように述べています。

佐藤洋一郎著『イネが語る日本と中国』より
 外山さんによると、縄文時代の後期中ごろまで(いまから約3000年前まで)の日本列島では、その西半分、つまり関ケ原から西ではイネが作られていたことが如実にみてとれる。
 しかし縄文時代の遺跡からは水田はでてきていない。厳密な言い方をすると、縄文時代晩期の後半以前には、日本列島には水田稲作はなかったらしい。では時代のイネをどう考えるのがよいのか。私は、縄文時代の稲作が、いまのような水田ではなく焼畑のようなところで行われていたと考えている。今でも全世界的に見れば、日本列島のような水田稲作を営んでいる地域は稲作地域のなかのごくわずかに過ぎない。

 イネは水田で作られるものという常識が通用するのは、いまの日本列島と朝鮮半島、それに中国の北半分くらいのものに過ぎない。縄文時代のこの時期に水田がなかったことは、水田稲作がなかったことの証拠ではあっても稲作がなかったことの証拠にはならない。

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