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zoom RSS 『日本の美術285 宿場と本陣』1

<<   作成日時 : 2017/11/15 13:44   >>

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<『日本の美術285 宿場と本陣』1>
図書館で『日本の美術285 宿場と本陣』というビジュアル本を、手にしたのです。
宿場と本陣といえば…
都市計画と建築アートが絡むわけで大使のツボでんがな♪



【日本の美術285 宿場と本陣】
宿場

ムック、至文堂、1990年刊

<商品の説明>より
旅と街道 江戸時代の街道と宿場 本陣・脇本陣と宿場 街道に生きる宿場 旅と宿(江戸時代の旅と宿 宿場の建物いろいろ)

<読む前の大使寸評>
宿場と本陣といえば…
都市計画と建築アートが絡むわけで大使のツボでんがな♪

宿場と本陣は、参勤交代という中世の年中イベントに対応して生まれたが、そのイベントがなくなれば消滅、衰退する結末が待っていました。

この形成、衰退に匹敵する史実としては、先ず太平洋戦争時の空襲・その後の復興があり、その次に、昨今の大店法が誘導する画一的なファスト風土ではなかろうか。

商人の規模とスピードに対応できない行政によって、日本の都市景観はますますアメリカに似てきているが・・・役人に任せていたら、文化的景観などというものは二の次になるんでしょうね。

amazon日本の美術285 宿場と本陣


街道と宿場の起源なんかを、見てみましょう。
p17〜21
<旅と街道> 
 江戸時代はそれまでのどの時代よりも多くの人々が旅をし、物資が移動した時代でもあった。もっとも、多くの人々は土地に束縛されていたから旅をしなければならなかったのは、仕事の上での往来や、あるいは参勤交代の大名であった。しかし日常の束縛から一事的に開放され、名のある社寺への参詣の旅など多くの人々が旅をした様子は道中日記などが物語ってくれる。

 江戸時代の旅が自由にできるものでなく、またけっして楽しいことばかりであったとは言えない。けれども、不安ばかりではなく、今日的な意味での期待や楽しみも手伝って江戸時代には参詣と物見遊山が増えたのであろう。

 自由な往来が困難な江戸時代にも参詣は旅行の目的として認められていた。住みなれた居住地から名のある社寺への参詣は単に社寺の参詣だけでなく、その道中の名所旧跡を廻る旅であった。こうして確立した日本人の旅行の型は今日でも受継がれていて、日本人の旅行はリゾート型よりも参詣型が色濃いと言われる。

 参詣地のなかでは伊勢詣が突出している。その他に石松の代参で有名な金毘羅詣、落語にも登場する大山詣、火の神として広く知られる秋葉山詣、そして西国巡礼がある。西の伊勢詣に対して、東の出羽三山への参詣も人が多かった。

 江戸からは、比較的近い大山、成田山、富士山にと参詣した。参詣地に至る道筋に、目的地の名を冠した街道は各地に多い。

<江戸時代の街道と宿場> 
■街道 
 人が生活し、物の移動があれば、そこには人々の動く道ができる。交通機関が発達するまで、人々が移動するのはもっぱら徒歩で、繰り返し歩くことによって道ができたに違いない。こうした道は地形に制約されているから、近年の車のために建設された道をのぞくと道は古くから今日まであまり変わっていない。

 奈良では下つ道、中つ道、上つ道や横大路が明治時代になっても幹線道路となっていたが、これらは奈良時代以来の道で、奈良の竹ノ内街道なども同様に古い道である。古代に整備されたこれらの道は、こんにちでも奈良盆地に明瞭にのこっていて、交通体系の骨格となっている。

 一方、『続日本紀』にみえる古代の「吉蘇路」は、江戸時代の木曽路とは異なるらしい。「木曽路はすべて山の中である」ことに変わりはないが江戸時代の中山道は木曽川に近いところを縫っているのに古代の「吉蘇路」は江戸時代の木曽路より海抜の高い所を通っていたらしい。関東には各地と鎌倉とを往来した鎌倉街道があって、中世に確立した道路網が、今日の道路網の基礎となっている。

 人が効率よく動くには、整備された道が必用であり、維持・管理も必要である。徳川幕府には五街道と脇往還などの重要な街道を支配する道中奉行がいた。道中奉行支配以外の主要な街道は勘定奉行が支配した。

■宿駅 
 宿場・宿場町というと宿屋が集まっている町をイメージするが、江戸時代の宿場・宿場町にはたんに宿屋が集まっていた町のことではない。江戸時代の宿場の使命は、幕府の定めた多くの特権的な通行を保障することであり、そのために、人や馬を用意し宿場間を次々に継送るとともに、通行者に応じてその休泊をも提供することにあった。各宿には宿役人がいて、人馬継立の事務を行った。人馬継立の事務の総括は問屋が行った。東北地方では、人馬継立の事務総括者を「検断」と呼んでいる。

 問屋は本陣を兼務した場合が多い。人馬継立の義務を負う、いわば見返りとして宿場は一般通行者に宿泊を提供できる権利を持った。宿泊を提供することを認められた宿場以外で、旅行者が自由に宿泊することは禁じられていた。

■宿場の建設
 宿場は一度にできたものではなく、江戸時代以前の集落を基礎として、江戸時代初めに整えられ、確定したのは寛永年間であろう。東海道では53次ができて、各宿間の距離の平均は2里11町弱(約4Km)となり、中山道は67次で、平均距離は2里32町ほどとなった。

 宿場と宿場との距離は人馬の継立を行うのに適宜な距離であり、宿場の創設は人馬の継立を第一の条件にして定められた。
 
■問屋
 道中奉行は五街道の宿駅に関することをすべて統括した。一方、宿場は一般の都市・村落としては、年貢の徴収や行政上では領主の支配を受ける。伝馬・旅宿・飛脚・道の維持管理等については道中奉行の指揮を仰ぐので、道中奉行と領主から二重の支配を受けていた。道中奉行の指示は問屋・宿役人を通して、領主の支配は名主を通して行った。問屋と名主は同一人物が務める場合が多い。


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