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zoom RSS 『ジャポニスム』あれこれR1    B

<<   作成日時 : 2017/08/03 17:15   >>

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<『ジャポニスム』あれこれR1>
図書館で『ジャポニスム』という大型本を、手にしたのです。
ぱらぱらとめくってみると、日本アイ・ビー・エム社の記念出版となっているが・・・
企業メセナであろうが、内容が充実していればいいのです♪

・・・ということで、「ジャポニスム」本を並べてみました。

・ジャポニスムと近代の日本:東田雅博
・ジャポニスムの意味:高階秀爾
・ドガとロートレック:粟津則雄
・浮世絵の抽象性とゴーギャン:横尾忠則
・クリムトのジャポニスム:馬渕明子
・オクサイ/ホクサイ?:馬渕明子
富岳甲州石班沢

R1:『ジャポニスムと近代の日本』を追加



【ジャポニスムと近代の日本】
ジャポン

東田雅博著、山川出版社、2017年刊

<「BOOK」データベース>より
今日、クールジャパンとして、世界の注目を集めている日本の文化。幕末・明治期の頃にも、ジャポニスムと呼ばれる同様の現象が見られた。日本が文化的に輝いていた、150年ほど前の日本と世界の交流について考える。

<読む前の大使寸評>
中国のシノワズリーと対比して述べる著者のスタンスがかなり愛国的であり・・・ええでぇ♪

rakutenジャポニスムと近代の日本




<ジャポニスムの意味:高階秀爾>
イントロダクションあたりを、見てみましょう。
p6〜8
<ジャポニスムの意味:高階秀爾>
 「ジャポニスム」という言葉は、まだ一般にそれほど馴染み深いものとは言えないかもしれない。本家のフランスにおいてさえ、そうである。今回の「ジャポニスム」展を準備していた頃、私の出会ったあるフランス人は、それを、浮世絵、根付、印籠など、もっぺら西欧人の好んだ日本の美術品が展示される展覧会だと考えていた。

 たしかに、ペルシャの絨毯やアラビアの水煙管など、東方世界(オリエント)の珍しい品物に興味を惹かれて異国的香りの高い東方渡来の珍品を集める趣味を「オリエンタリスム」と呼ぶなら「ジャポニスム」は日本の美術工芸に対する「日本趣味」という意味で用いられても、不思議ではない。

 だが現在使われている「ジャポニスム」は、そのような日本趣味をも当然含みながら、もう少し幅広い、そして深い内容を持っている。というのは、「オリエンタリスム」の場合と違って、「ジャポニスム」は単なる異国趣味の段階にとどまらず、さらに進んで、西欧芸術の歴史の上での新しい造形表現、ないしは近代美術の革新と密接にかかわっているからである。

 したがって「ジャポニスム」と言えば、好事家の異国趣味から前衛的創造活動への刺戟にいたるまで、広い範囲にわたって西欧に対する日本の影響全体を指すのが、今ではほぼ定着した意味である。

 このような日本の影響が明確なかたちで表れて来るのは、およそ19世紀の中頃からのことである。それ以前に日本の美術が西洋に知られていなかったわけではない。1543年、種子島にポルトガル人が漂着して以来、日本と西欧とのあいだには、さまざまの交流、交渉、影響があった。

 桃山時代から江戸時代の初めにかけて、いわゆる南蛮文化の盛期には、蒔絵や螺鈿で飾られた聖〇や聖餅箱など、キリスト教のための祭具がかなりの数日本で作られて、ヨーロッパに運ばれて行った。鎖国時代においてさえ、日本の蘭学者たちがわずかな輸入品を手がかりに西欧の新知識を吸収したように、長崎を通じてのオランダ貿易によって、漆器、焼物、金工品などの日本の工芸品が、ある程度まで西欧に流れ込んで行った筈である。

 18世紀の末に三度にわたって長崎出島のオランダ商館長を勤めたイサーク・ティチングは、日本の置物、根付、陶器など、7百点以上にのぼるコレクションを持ち帰っている。その他にも、絵草紙や版画なども集められていたから、そのような個人のコレクションによっても、日本の美術が知られる機会はあった。

 幕末に長崎に住んでいたオランダ人シーボルトが、美術品だけにかぎらず、日用の道具、什器類も含めて、大量の収集品を集めていたことはよく知られているだろう。そのシーボルトをはじめ、シーボルトより百年以上も前にオランダ船の船医として日本にやって来たドイツ人、エンゲルベルト・ケンペルやその他の西欧人の紀行文や日本紹介の本も、この極東の国をヨーロッパの人びとに知らせるのに大いに役立っていた。

 しかしながら、この時期の日本への趣味は、やはり基本的には、まだかぎられた範囲の異国趣味にとどまっていたと言うべきであろう。部分的には、例えば陶磁器の分野において、日本の有田焼の彩色がドレスデン磁器の振興をもたらしたといったような事例がないわけではないが、日本の美術が西欧絵画の流れを変えると言ったような決定的な影響は、まったく見られなかった。
(中略)

 しかし、「ジャポニスム」の場合は違う。日本の美術は、エキゾティックな世界に対する興味を燃え上がらせると同時に、絵画や工芸やさらには建築、デザイン、写真の分野においても、ある決定的な変化を西欧の芸術にもたらしたのである。

 そのことは、1860年代頃から、西欧の美術のなかに急速に日本が浸透して行ったという事実によって示される。それはまず、初めのうちは、「オリエンタリスム」の場合と同じような異国的なものに対する興味となって表れた。

 マネは、1868年に描いた友人の小説家「エミール・ゾラの肖像」の背景に、日本の花鳥風月屏風を置いたり、壁に相撲の力士を描いた浮世絵を書き込んだりしている。
 浮世絵の熱心な愛好者であったゴッホは、広重の「名所江戸百景」のなかの「亀戸梅屋舗」や「大はしあたけの夕立」などの図をわざわざ油絵で模写しているし、ゴーギャンは、背景に浮世絵の武者絵のある静物画を残している。
(中略)
ゾラエミール・ゾラの肖像

 しかし、このように日本的モティーフや日本特有の表現形式を取り入れるといういわば外面的な影響は、ただちに、絵画様式そのものを大きく変える革新的な表現へとつながって行った。印象派の仲間の一人であったドガは、着物とか団扇といったような日本的モティーフはほとんど何ひとつ描いていないが、例えば自分の友人を描いた肖像画で思い切って高い視点から見下したような大胆な構図を試みたり、パリの街角を描くのに、わざと左右のバランスを崩した画面構成を用いたりしている。

 
浮世絵の影響をドガとロートレックに、見てみましょう。
p120〜122
<ドガとロートレック:粟津則雄>
アブサンアプサント

 1877年の『アプサント』は、場末のカフェの一情景を描いた有名な作品だが、男女二人の客を画面の右上隅に寄せ、その前にテーブルをくの字形に並べた構図にも、明らかに浮世絵の構図法の影響を見てとることが出来る。このようにくの字ないしは対角線的構図は、たとえば広重の風景画などにおいていくらも見られるものだが、ドガはそれを風景ではなくさまざまな室内情景のなかで見事に生かしている。
(中略)

 ドガの80年代以降の重要な主題は裸婦である。彼は、あるいは身体を洗い、あるいは浴槽をまたぎ、あるいは髪をすくさまざまな裸婦の一瞬の姿を残酷に描き出している。彼は或るとき、アトリエを訪れた客にその裸婦図を見せながら「裸婦は、これまでいつも、あとでそれを見る人があることを予想したポーズで描かれていたんですが、私が描いたこれらの女たちは、自分の肉体的状態に含まれた事柄以外には、何の関心もない、正直で単純な人間なのです。ほら、これもそうです。彼女は足を洗っているのですが、まるで鍵穴からのぞいたようでしょう」と語ったということだ。
(中略)

ロートレック

 一方、トウールーズ=ロートレックは、1864年の生まれだから、ドガよりちょうど30歳年下ということになるのだが、彼にとってもっとも重要な先輩画家はドガであり、ドガと同様、浮世絵に強い興味を示していた。それどころか、彼は、ドガとともに、浮世絵をもっとも本質的なかたちで受入れた画家にほかならぬ。

 彼は、ポルティエ画廊やおさな友達ジョワイヤンがつとめていたグーピル商会などで、早くから浮世絵に接していたが、1889年のパリ万国博に数多くの浮世絵が出品され、翌90年には美術学校で大浮世絵展が開かれたというようなこともあって、浮世絵の魅力に強くとらえられるに到ったようだ。

 彼は、気に入った浮世絵を買いこみ、時には1枚ものの版画と自分の油絵を交換したということだ。彼のアトリエは、浮世絵ばかりでなく、箱につめた日本の小さな骨董品にあふれていたということだ。


多くの著名人が「ジャポニスム」を語っているが、そのなかで横尾さんのコメントを見てみましょう。
p56
<浮世絵の抽象性とゴーギャン:横尾忠則>
 ぼくは時々ゴーギャンのような絵を描いてみちという衝動に突き動かされることがある。つまりありとあらゆる様式が統合された作品ということである。

 ゴーギャンはゴッホ、セザンヌ、ドガ、ムンク、ベルナール、ラファエル、アングル、そしてエジプト、ジャワ、ギリシャ、中国、日本といった文化からの影響を隠そうとしない。実にしたたかである。

ゴーギャン説教のあとの幻影・ヤコブと天子の格闘

 ゴーギャンの作品にある種の魔力があるとすればあの有名な綜合主義の登場となった「説教のあとの幻影・ヤコブと天子の格闘」の現実空間と超自然空間の併置から発生されるものだけではなく、古今東西の複合的イメージの働きに負うところも大きいと思う。

 ところでゴーギャンの作品を最も特徴づけているのは画面の平面性である。西洋の伝統絵画には見られないこの平面性は完全に日本の浮世絵を意識したものであることもすぐわかる。平面性の性質上画面はどうしても装飾性を帯びざるを得ない。

 ところが日本の近代絵画は先ずこの平面性を否定するところから出発した。日本の近代絵画にとって平面性の否定は発見でもなんでもないが、ヨーロッパ絵画にとっては平面性は伝統の否定であると同時に革命的な発見だったわけである。

 ゴーギャンは浮世絵の平面性だけでなく、モチーフ、構図、フォルム、色彩とありとあらゆる要素を実に巧みに引用、借用している。勿論日本の儀式だけではない、まるで子供の純粋な要求そのままが多国籍、多重人格的に一大植民地文化を形成しているようだ。結局、天才的才能というものは子供のように欲しいものを全て手に入れることに異常なほど執着する精神をいうのかもしれない。

 ぼくはここでふと重要なことを思いついた。ゴーギャンは浮世絵を他の印象派の画家達が受入れた視点とはかなり違った見方をしていたのではないかと思うのである。それは例えばゴッホやマネは自分の絵の中に浮世絵を風景として描き込んでいるが、ゴーギャンはそんな直接的なことには全く興味がなかったのだ。

 つまりゴーギャンは浮世絵を抽象絵画として見ていたのである。彼は絵画のために自然をあまり模倣してはいけない、というのは芸術は抽象であるからだと常にいい続けていた。また絵具を厚く塗りたくったりすることを嫌い、色と形を分割しながら線はまるでステンドグラスのように描くべきだ、とこのようにもいっていることからどうも浮世絵をまるで抽象絵画のように考えていたとしか思えないのだ。

 「ゴーギャンの戯画的肖像」という作品など見ているとマチスの一連の色面絵画を彷彿させる。ゴーギャンの謎めいた捕らえがたい魔力こそ彼の絵画における抽象性のなせる技という一言を最後につけ加えておく必要がでてきた。


個人的にはクリムトのジャポニスムが興味深いのです。
で、馬渕明子著『ジャポニスム』という同名の本から、そのあたりを引用します。
クリムト

クリムトの装飾性を、見てみましょう。
p192〜194
<クリムトの装飾活動>
 ウィーンで19世紀から20世紀初めにかけての代表的な画家は、グスタフ・クリムト(1862〜1918)である。彼はハンス・マカルト(1840〜84)が大々的にリングシュトラーセの建造物の装飾を手がけた時代に成長し、工芸美術学校で学んだ。彼の最初の仕事は1880年代初め教則画集『寓意と象徴』のための作品の制作やカルロヴィ・ヴァリ、リベレツなどの建築の装飾である。つまり彼は20代を通して、マカルト風の、あるいはアルマ=タデマ風の古典主義的で甘美な、そして空間のイリュージョニズムをたっぷりと使った様式をマスターしたわけである。

 このような装飾は、バロックやロコオの時代の、あいたスペースに物語を展開させて、華やかに埋め尽くすやり方から一歩も出ていない。しかっし3〜4年の隔たりのあるブルク劇場と美術史美術館の作品を比較すると、おもしろい特徴が生まれ始めていることに気づく。すなわち、前者では背後の、あるいは人物の取り巻く空間が広々としているのに対し、後者は人物の背後をその時代を意味する美術で埋め、衣装の繰り返し文様に大きな配慮を払っていることである。つまり、1891年には空間は浅くなり、繰り返し文様が画面の一部を覆う。

 1890年代のクリムトの仕事の中で、顕著に見られるのは平面化である。それは、人物の衣装を中心に、繰り返しの文様が画面内の大きな部分を占めてゆくのと、背景として描かれる「地」への関心が高まってきているという二つの点に明らかである。

 布地の質感ではなく、文様そのものを使い、華やかな「かざり」の効果で面を覆ってゆくことによって、空間は二次元的になってゆく。人体はそのヴォリュームを失い、平坦な衣装からかろうじて現れる手や顔だけの存在となってしまうのである。
(中略)

 しかしそれにもかかわらず、「地」の表現は存在した。特に人物の顔立ちを写実的に表そうとする肖像画の場合、背景が煩雑であることを避けようとした時に、「地」が意味不明の均一の色彩の面として登場したことは、しばしばある。しかしそれは自己主張しない、きわめて消極的な「地」であった。クリムトが積極的に空間を閉ざす目的で用いた「地」とは大きな隔たりがある。


クリムトの装飾化は、ある意味、初めてのクール・ジャパンだったのでは♪
p204〜205
<動きの文様>
 このように、日本の文様やモティーフはほとんどが季節感を豊かにたたえた自然の動植物や現象をデザイン化したものであり、そこに人間が登場することは稀であった。クリムトはこうした文様がただ華麗な装飾に利用するだけでなく、日本におけるおとはまったくの別のコンテクスト、すなわち官能的で動物的で挑発的なファム・ファタールのイメージを作り上げるのに利用し、成功した。

 女たちはある時は自然の流れと同化し、自然の豊饒に身を委ねるが、時折そこから身をもたげ、魔女のような冷ややかさで男/人間の前に立ち現れる。そして、そのファム・ファタール的な特質は、より平面性の強い表現と硬質な文様と組み合わされた人間表現において、いっそう顕著に現れるのである。

成就成就(部分)

 クリムトの人物画はほとんどが女性をモティーフにしているが、女性と衣装のデザイン、もしくは衣装の文様との密接な関係は、浮世絵と非常に近いものがある。浮世絵に描かれた、粋であでやかな女性たちは、その顔立ちと肉体の様式化された美しさと、洗練された衣装によって、19世紀のヨーロッパの人々を魅了し、クリムトもその例に漏れず浮世絵を所蔵していた。

 しかしここにおいて、日本とウィーンとでは非常に大きな表現上の違いを示している。日本人にとっては、人体も衣装も、材質こそ違え表現の上では差異はない。すなわち輪郭線によって形取り、平面として描く。しかし文様の持つ平面的装飾的魅力にとりつかれたウィーン派の人々にとって、問題はさほど簡単ではない。

 人体の三次元性を重視して衣装をそれに添わせてしまえば、硬質で斬新な平面の魅力は失われてしまう。かといって、人間表現を平面に還元してしまえば、人体の持つ官能的な生命力は失われてしまう。結局のところ、装飾デザインにおいては、人間は次第に平面的になってゆく方向をとるのだが、クリムトはこの平面と立体を一つの画面に共存させることによって、緊張感溢れる不思議な効果を生み出すことになるのである。


ジャポニスムを語る上では、まず北斎を押さえておく必用がありますね。
富岳甲州石班沢

p228〜232
<オクサイ/ホクサイ?>
 ヨーロッパにおける葛飾北斎の知名度は群を抜いている。それはすでに19世紀からそうだった。いやむしろ19世紀、日本の美術品が開国に伴って大量にヨーロッパに流入した直後から、北斎の名は日本を代表する芸術家として、第一に挙げられた。

 たとえば、当時から一級の美術雑誌であった『ガゼット・ド・ボザール』の編集長を務めたルイ・ゴンスは、1883年に刊行した『日本美術』において北斎を絶賛し、「人類の生みだした最も卓越した画家のひとり」等々と誉め称えたため、当時日本で美術を論じていた東京大学政治学経済学教師アーネスト・フェノロサの強い反感を買ったほどだった。

 フェノロサは外国人として最も日本美術に通じていると自負していたため、雪舟や室町水墨画、江戸初期狩野派、宗達・光琳をさしおいて、国内的評価の低い浮世絵師をこのように持ち上げる姿勢に、憤りを感じたのだった。これは実はゴンスのみを相手にしたものでなくて、ヨーロッパ全体の浮世絵評価の高さをつねづね苦々しく思っていたからだと考えられる。フェノロサはゴンスに対する反論として1884年7月12日付けの『ジャパン・ウィークリー・メール』紙に「ルイ・ゴンス著『日本美術』所載絵画論書評」を載せて、その該博な知識と鋭い論法によってヨーロッパ人の誤謬を正そうとしたが、それは無視され、北斎熱は一向に収まる気配はなかった。

 ゴンスの『日本美術』は、精緻とはほど遠いものだったが、刊行後10年の1893年には日本語訳も出て、西欧コンプレックスに悩む日本人をいささかなりとも慰めることになる。
 北斎の作品は、日本に関する書物の挿絵として、まず広まった。開国直後に日本にやってきた人々、とりわけ外交団のメンバーたちは、この知られざる神秘の国についてさまざまに旅行記を出版するが、その中で最も多く挿絵として取り上げられたのが、北斎の絵本である。

 その使用例は、時期的には早くて例外であるシーボルトの『ニッポンの記録集』(1832〜58年)、J・F・オーフェルメール・フィスヘルの『日本風俗備考』(1833年)といった、出島時代の書物をはじめとして、開国前後のE・コリノとアダルベール・ド・ボーモンの『日本の装飾、美術工芸のための素描集』(1856年)、ラザフォード・オールコックの『大君の都』(1863年)など、列挙にいとまがない。この中で直接日本を訪れていない人物は、コリノとボーモンだけである。

 彼ら初期の外交官たちの関心は、主に日本という国の政治制度、風俗習慣、歴史などであったから、これらの挿絵を提供した絵師たちがどういう人物で、どういう流れに位置するのかといったことにはほとんどおかまいなしだった。つまり、ここで北斎の名は、シーボルト以外には登場していない。

 シーボルトは最近の研究では、北斎と面識があったかもしれず、肉筆の作品を注文した可能性が高いとされているので、その名を記すことはむしろ自然だろう。しかし他の筆者にとっては、巧みな筆さばきやモティーフのおもしろさ、そして何よりも彼らが直接眼にして驚かされた日本の風俗が、この画家によって、実に生き生きと写し取られていることが、重要だったのである。
(中略)

 現在まで語られてきた初期の浮世絵発見伝説には、1852年ゴンクール兄弟説、1856年ブラックモン説、同年モネ説等があるが、今日ではいずれも本人の証言以外に証拠が見つからないため否定的に見る研究者が多く、実際には早くても、1859年、せいぜい1861、62年頃がいわゆるジャポニストたちの浮世絵発見の年代とされている。
(中略)

 以上のように、日本の美術の影響が盛んに語られ、イメージそのものは1858年頃から挿絵という形でヨーロッパの人々の眼に触れることが多くなったが、北斎が実際に芸術家の名前として語られるようになるには10年の歳月を要した。しかしひとたび芸術家としての名を獲得すると、北斎はたちまち巨匠並みの扱いを受け、そしてその後は「北斎論」として雑誌記事や単行本が相次ぐことになる。


北斎とドガの関係が述べられています。
北斎漫画北斎漫画

p236〜240
<モティーフの転用>
 絵画において、北斎のモティーフを最も多用したのは、おそらくドガであろう。ジャポニスムの書物としてはかなり早い小林太市郎の『北斎とドガ』(初版1946年)は、このような例を多数指摘している。

 ドガが日本の影響を多く受け、またそれを最も消化した形で提示した芸術家であったことに、今日では異論をはさむ者はいないが、残念なことに、ドガ自身は日本美術に対して、日本人画家が日本に生まれたという幸運に恵まれているのに、わざわざパリまで油絵の勉強に来たのは理解できない、と言ったとか、友人の彫刻家バルトロメ宛ての手紙で1890年のパリ美術学校での『大浮世絵展』を見たとかの遠回しな言及はあるものの、書簡などでみずからの傾倒を明かすような言葉を残しておらず、また直接的にそれとわかる図像(着物、浮世絵、屏風など)を描き込んだ例もない。

 そうした「趣味」の領域にとどまっていると思われるのを嫌ったためであろう。彼は版画にせよ、扇面画の宗達・光琳派風の作品にせよ、徹底的に研究し、自己の表現に取り込んだ。 小林の書物の中では、北斎の『絵本浄瑠璃絶句』がドガの男女の風俗を表す作品に多大な影響を与えている、と指摘されているが、彼が挙げている具体的な作品の対照はあまり説得的とは思えない。

 しかし奇抜な人物表現を得意としたドガは、北斎の人物や動物たち、とりわけ『北斎漫画』をはじめとする絵手本の、数多くの人物や馬たちを、競馬場やバレーの踊子や入浴の裸婦たちに応用している。



【ジャポニスム】
ジャポニスム

平凡社編、日本アイ・ビー・エム、1988年刊

<ブログ「いつも旅の途中」>より
1988年11月発行で、発行元は日本アイ・ビー・エム株式会社。
なぜ日本アイ・ビー・エムが美術の本かということは、最初のページの「ごあいさつ」に書いてあります。
同社は1979年以来、毎年、テレビ番組「IBM美術スペシャル」を提供していて、この年には、「ドガとロートレック〜モンマルトルのジャポニスム〜」を放送。
その記念として、この本が出版されたとのことです。

<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくってみると、日本アイ・ビー・エム社の記念出版となっているが・・・
企業メセナであろうが、内容が充実していればいいのです♪

日本アイ・ビー・エム美術スペシャル記念出版「ジャポニスム」



【ジャポニスム】
ジャポニスム

馬渕明子著、ブリュッケ、2015年刊

<「BOOK」データベース>より
19世紀末のヨーロッパが選んだNIPPONとは?第19回ジャポニスム学会賞受賞。
【目次】
1 ジャポニスムとは何かー序にかえて/2 ジャポニスムと自然主義/3 モネの“ラ・ジャポネーズ”をめぐってー異国への窓/4 A travers-モネの“木の間越しの春”をめぐって/5 モネのジャポニスムー自然と装飾/6 ゴッホと日本/7 クリムトと装飾ーウィーンにおける絵画のジャポニスム/8 葛飾北斎とジャポニスム

<読む前の大使寸評>
個人的にはクリムトのジャポニスムが興味深いのです。
ジャポニスムを装飾として活用するとは、やったもん勝ちでんがな♪

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